史上初の人工衛星「スプートニク」の観測
                              (31佐藤さんの『昭和十三年早生まれ』より)
                                お名前の関係を一部編集させていただきました。

 私の大学生時代の大事件に人類史上初の人工衛星打ち上げがあります。宇宙時代の幕開けです。
アメリカのアイゼンハワー大統領が世界に先駆けて人工衛星を打ち上げると宣言していました。
そのために、スミソニアン天体物理観測所をセンターに「ムーンウオッチプロジェクト」というものが
計画されました。後年発行された翻訳書には「月面観測計画」と訳されているものもありますが、
この場合の「ムーン」は「artificial moon」つまり「人工衛星のことです。「人工衛星監視計画」が正しい訳です。

 初めの頃の人工衛星は計画通り飛んでいるという保証はなく、飛んでいるのを探し出して、軌道を
決定する必要があったのです。具体的には、倍率数倍の望遠鏡10 台程度で空の端から端までをカバーし、
予報時刻の30 分位前から目を離さず監視しておくのです。予報時刻までに人工衛星が現れない場合は、
その後30 分位は諦めずに監視を続けます。望遠鏡の視野には線が張ってあり、人工衛星がそこを通過する
時刻を記録します。

 また、人工衛星が空のどの部分を通過したかも記録します。そのために、「スカルナーテプレソ星図」を
裏焼きしたものが配布されました。楽な姿勢で望遠鏡を覗けるよう1枚の鏡で光を反射させていましたので、
実祭に見える星の配列も裏返しになるからです。(編者註1)

 このようなムーンウオッチによる観測が成功すると、より正確な軌道が決定され、ベーカー・ナン・シュミットカメラを
はじめとする高度な観測機器が活躍出来るようになるのです。そのため、世界中に「人工衛星観測班」が結成されました。
これはプロアマ協力の科学プロジェクトの大がかりなものとしては最初のものではないかと思います。

 日本にも約70 の観測班が結成され、広島市にも「人工衛星観測広島班」が結成されました。班長は言うまでもなく
村上先生で、メンバーは広大天文学会会員(学生)です。観測所は広大皆実分校(この場所は現在は広大付属小・中・
高校になっている) の水泳プールの横でした。(編者註2)

 観測器材の調達その他に資金が必要ですが、新聞社が競ってスポンサーになってくれました。OA A 関係の
観測班のスポンサーは大阪読売新聞社で、事務局長はO A A の副会長をされたこともある高城先生でした。
私達の広島班もこれに属していました。観測に成功したら、受取人払いの電報で東京天文台に報告し、そこから
世界センターであるアメリカの「スミソニアン天体物理観測所」に報告されることになっていました。

 さて、人工衛星の打ち上げはアメリカが最初だろうとほとんどの人が信じており、広島班の私達も例外ではありませんでした。
ところが、1957 年10月4 日、ソ連が突然人工衛星を打ち上げたのです。「スプートニク1号」です。アメリカの人工衛星用に
設置した観測所で突然、ソ連の人工衛星を観測しなくてはならないことになったのです。低緯度から打ち上げられるアメリカの
人工衛星は西から東に動きますので、10 台の望遠鏡を子午線に沿って配列してあったのですが、高緯度から打ち上げられる
ソ連の人工衛星はもっと南北に近いコースをとりますので、卯酉線(東西線)に配列方向を変えるべきかどうか議論したことは
記憶にあるのですが、実際に望遠鏡の配列方向を変えたかどうかは、なぜか記憶にありません。(編者註3)

 スプートニク1 号の本体は暗くてなかなか捕らえられませんでしたが、毎日夜明け前に観測所に来ていた高校生が双眼鏡で
捕らえました。5 等星位でした。以後その高校生( 阿部君といったか?? ) は正式の班員扱いになりました。一緒に軌道に
乗った最終段ロケットは明るく、2 等星位でよく見えました。スプートニク2号、3 号のロケットはもっと明るく、マイナス等級で
見えました。

 観測は連日朝夕ダブルヘッダーのこともありました。村上先生から「君達も疲れるでしょう」と、大病を患った先生の治療用の
ブドウ糖の注射液を頂き、皆で飲んだことは村上先生への追悼文(天界1985 年4 月号)に書いたとおりです。ドリンク剤などない
時代でした。

 観測班での私の役目は飛んでいる光点が本当に人工衛星なのか、飛行機の明かりではないのかということを確かめることでした。
予報時刻の頃、予報に近いコースで飛んで来る光点が度々あるのです。明滅しませんし、爆音も聞こえません。双眼鏡でも判定
出来ません。それで、口径10cm 反射経緯台に40 倍だったかで見るのです。そうすると、明るいオレンジ色の光のそばで微かな光が
明滅しているので、飛行機と判断出来るのです。ニュートン式反射ですから、接眼部は筒と直角に付いています。ファインダーで対象を
捕らえると間髪を容れず望遠鏡本体を覗き、しかも対象の動きを追尾する必要があります。それを困難なく出来るのは、班員中
私だけだったのです。

 ところで急に話題が変わりますが、スプートニク打ち上げの次の年、1958年に「広島復興博覧会」というのが開催され、
私達「広大天文学会」会員はその中の「宇宙館」のアルバイトを頼まれました。ドーム状の建物で、控え室に壁はあるのですが、
天井が無かったので、どこかで自分の悪口を言っているのが上からガンガン聞こえてくるのです。ドームが球面鏡の働きをして、
別の所で悪口を言っているのが私達の所に焦点を結んでいたのですね。宇宙館には五藤光学の口径15cm 屈折赤道儀が
来ていました。博覧会後、広大に半無期限に貸してくれるとのことでしたが、広大には観測室を作る資金がなく、国泰寺中学校の
屋上にかなりの期間設置されていました。中学生の親達がスライディングルーフの観測室を作る資金を募金してくれたと聞きました。

 スプートニクに話をもどしますが、この広島復興博に1 号と2 号の実物大模型がソ達から展示され、レニングラード大学日本語学科の
学生が解説係として来ており、私達広大天文学会員と親しくなりました。彼は今も元気でしょうか。なお、スプートニクの展示会場は
宇宙館ではなく、高床式の「原爆資料館」の床下でした。





(編者註1)
この望遠鏡は、1970年代後半にも会のBOXに残っていました。記憶を頼りに描いてみると、下のような感じでした。
口径5 p 、倍率7 倍くらいで、天頂プリズム( 天頂ミラー)で光路を直角に曲げていました。

接眼部をのぞくと、視野内には十字線の代わりに平行に2本の線があったように記憶しています。その間のスリット状に
なった部分を人工衛星が通過するときに、時間を測定したのだろうなあ、と思います。(間違っていましたら、ご指摘下さい。)

コンパクトで明るくて、使い勝手のよい望遠鏡でした。年表の1957年10月10日の記事をクリックすると、据え付け状態の分かる
写真が出ます。

   



(編者註2)
この場所には、2011 年現在でもコンクリートの礎石が残っているのではないかという話を聞いたことがあります。
どなたか、確認してみませんか。


(編者註3)
31佐藤さんによると、記憶に残っていないのは、望遠鏡の配列方向は変更しなかったためではないかとのことでした。