広大に25p反射赤道儀(西村製・木辺鏡)がやって来たんだけれど・・・
1962(昭和37)年12月17日広大に25p反赤がやってきました。その後、1993(平成5)年3月の総合科学部(教養部)の西条移転まで、
30年の長きにわたって我らが「主砲」として、クラブのシンボルともなる望遠鏡です。
望遠鏡の到着・組立ての記録は、編集者が学生時代、『蒼穹』(天文学研究会版)に書いた「25年の歩み」の中にありました。
出典は、おそらくNova 6号 に記事があったのだと思いますが、今編集者の手元にあるNova6号は表紙のコピーだけです。
自分で書いておきながら、長いこと望遠鏡到着の事実を失念しておりましたので、古い『蒼穹』を読み返す中でこの記録に出会い、
オレもいい記録を残したものだ、と感慨もひとしおであったのですが・・・さて、
1963(昭和38)年ごろ撮影とされる航空写真を見る限り、まだ教養部自然科学棟は建設されておらず、したがって、その上にあって
25pが収まることになる屋上のドームもこの世に存在していません。
望遠鏡を図書館の屋上で組み立てたとありますが、「どうして図書館なのか」という疑問を「25年の歩み」を書いたころ抱いたことを
思い出しました。
31佐藤さんから、次のようなエピソードを伺いました。31佐藤さんも、昔の、しかもご卒業後のことなので、年度などは定かでは
ないかと思われますが、25p望遠鏡設置に至る貴重なお話を紹介させていただきます。
理科教育センターに30cmカセグレン反赤が来たので、25cmは広大が引き取りました。
因みに、30cm望遠鏡はニコンでしたが、主鏡をはずして裏を見たら、木辺先生のサインが
ありました。理科教育センターは東広島市に出来た県立教育センターに吸収されましたが、
現在(編集者註:2011年現在)そこにこの30cmがあるかどうか知りません。
1962(昭和37)年12月17日、広大にやってきた25p反赤は、県立理科教育センターから帰って来たものなのでしょうか?
それとも、このあと県立理科教育センターへ持って行かれ、いつの日にか再び広大に戻って来ることになるのででしょうか。
藤井旭さんの『日本の天文台』(1971年刊 誠文堂新光社)によりますと、県立理科教育センターのドームは本来は屈折用に
設計されたもので、直径4.5メートルということです。そして、開設は「1962年」と書かれているのを発見しました。25cmが
広大にはじめてやってきたのと同じ「1962年」です。
1962年当時、教養部自然科学棟はなく、当然にその上にドームは存在しえないことと考え合わせると、どうも我らの25pはこのあと、
県立理科教育センターへ持って行かれてしまったように思われますね。
それでは一体いつ、「彼」は広大に戻って来るのでしょうか?
そして、東千田キャンパスのドームはいつできたのでしょうか?
・藤井旭さんの『日本の天文台』(1971年刊 誠文堂新光社)には、広大のドームと25pが写真付きで紹介されています。取材に見えたのは
1970(昭和45)年の夏だと思われます。(残念ながらこのドームの開設時期などは記されていません)
・1968(昭和43)年5月発行のの『蒼穹』15号の表紙に25pの直焦点で撮ったM13の写真が使われています。撮影場所は
「広大天文ドーム」と明記されています。
・編集者のあいまいな記憶ですが、ドームに「昭和四十○年設置」という趣旨を書いた銘板が付けられていたように思います。
昭和四十何年なのか、記憶が不明ですが、昭和40年代前半だと思います。
・1982年刊行の『星雲星団斑・写真班 活動報告』に「今年4月に20年間酷使されてきた25cm反赤の架台が」という記述があります。
「20年間」とした根拠は不明ですが、望遠鏡に制作年度などが記されていたのかもしれません。20年前といえば1962年。つまり、
1962年に広大25cmは製造されたということの傍証になります。
(ちなみに編集者が持っている西村製15pは、鏡筒に貼られた銘板に製造番号らしきものが刻印されていますが、その最初の2文字は
製造年度のようです)
2011年10月末現在、編集者にわかっているのはここまでです。どなたか、事情をご存じの方、さらにフォローしていただけるとありがたいです。
学生時代の私の「25年のあゆみ」執筆は、1962年あたりで力尽き、「25年」どころか10年にも満たずに未完となりました。このあとも執筆を
続けていたら、25pが帰ってきたときの記録もあるいは残せたのかもしれないのですが・・・。
1965(昭和40)年に教養部自然科学棟に、ドームと天文学研究室(教官室)ができたという記述を発見しました。
天文月報1979年2月号掲載の、「研究室めぐり(II)広島大学総合科学部」という記事です。お書きになった方のお名前が記されていませんが、
おそらく内海先生だと思われます。
内海先生は1965(昭和40)年にはまだご着任になっていませんし、記事が書かれたのは、ドーム設置からずいぶん後のことですが、文中に
設置年がはっきり書かれていますので、おそらく内海先生がドームの銘板などをしっかり調査されて書かれたのだと思います。
そういえば、1965(昭和40)年は編集者の妹の生まれた年で、学生時代にドームの銘板を見た時、「ああ、このドームは、妹と同じ年だ」と思ったような
気がしてきました。本当にそう思ったのか、あるいは、今、天文月報の記事を見た瞬間に、そういう仮想の記憶がでっち上げられたのか、分かりません。
人の記憶なんて曖昧きわまりないものであります。
以下のホームページでその全文を閲覧することができます。
天文月報1979年2月号 研究室めぐり(II)広島大学総合科学部 著者名なし(内海先生か)
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1979/pdf/19790213.pdf
(天文月報ホームページTOPは http://www.asj.or.jp/geppou/index.html ここから「バックナンバー」に進んで下さい。)