日本天文学会秋季年会、広大を会場に開かれる
政経学部屋上にて 記念撮影(広大天文学会員が撮影)
広大天文学会員は受付・発表スライドの映写・発表時間通知等のアルバイト。
(日当一人3千円は部費に)
懇親会(於、大学会館)に無料で参加させていただく。
日本天文学会があったため、秋の合宿は行わなかった。
日本天文学会が開かれた時の思い出話も書こう。私は主にスライド係をしていた。
最初の発表者は古在さんだったが、東京天文台製のデジタル時計の調整が悪く、制限時間の
半分でブザーが鳴った。古在さんの不服そうな顔は今でもよく覚えている。とにかく百以上あった
発表をわけは分らんがみな聞いた。
その後の懇親会では「富田さんに酒をついでもらった。」などと喜び、調子にのって飲みすぎて
身動きがとれなくなり、我々に課された本来の任務であるイスのあとかたずけがほとんどできな
かった。これは、その後ときどき井上氏に言われていじめられていた。
50岩本さん 「卒業論文(天文研用)」 より抜粋 (『蒼穹』No.15 1979年1月)
学会前日に来広された先生方が何人か、我がクラブのBOXというか、25cm反赤ドームというかにおいでになり、
感激しました。今ではどなたがおいでになったか、記憶が薄れてしまいましたが、自分らアマチュアでもよく存じあげて
いる(つまり雑誌やマスコミなどでもおなじみの)著名な先生方でした。
たしか、皆で15cm反射鏡の研磨を始めていて、普段からきたない部室が一層ごたごたしていたところでしたので、
「このようなむさくるしいところへ、畏れ多いことで・・・」という感じでした。
日本天文学会の立て看板を正門付近に出しに行ったら、守衛のおじさんに場所のことであれこれ言われ、「大先生方が
集まる学会をなんと心得とるか!」という気分でした。守衛の方にはまたそれなりの理由がおありだったのだろうと、今なら
思うことができますが、当時は若気の至りでした。
さて、学会は、たぶん政経学部の大講義室のようなところで行われたのではないかと記憶しています。
当日は、スライド映写を担当せよと言われて、私は大喜びでした。きっと、美しい星の写真が、それも、岡山天体物理観測所や
木曽のシュミットカメラ、もしかしたらパロマー山などの大望遠鏡を使った写真が、次々と映し出されるのだろうと期待したからです。
しかし、星の写真は富田先生のウエスト彗星(その年3月に出現)ただ1枚で、あとは数式を複写したスライドばかりでした。
一人ひとりの発表時間は短く、数式を板書している時間はないので、あらかじめスライドにしてプレゼンテーションしたわけです。
天文「学」とは、望遠鏡で星を見て写真を撮るだけでは済まないのだと知った次第。
スライドの数式の字は細かいので、原版を見ても何が書いてあるのかは、まったく分りません。そこで、上下や裏表を間違え
ないように、スライドマウント枠の決まった場所に赤いマジックでしるしが付けられていました。我々映写係はこれを見て
スライドを映写機にかけるのですが、なかにお一人、しるしの位置を勘違いして付けて来られた方がいて、投影される数式が
逆さだったり裏返しだったり、そのたびに聴衆席から嘆息がもれ、発表者からも「いい加減にしろよ」というような視線が飛んで
きて、スライド係はパニックでした。
発表時間は東京天文台手作りのデジタルタイマーを用いて計り、発表者の持ち時間が終わると自動的にブザーが鳴ることに
なっていました。このタイマーは、外装はアルミ板でネジ止めの痕も生々しく、サイズは15cm×30p×10cmくらいだったでしょうか、
いかにも「手作り」という感じで、コンセントから電源をとるようになっていました。当時、デジタル時計はまだ珍しく、さすがは東京天文台、
最先端を行っていると大いに尊敬したものでした。
しかし、このタイマーは思うように働いてくれず、予想外の時間にブザーが鳴ってしまうというトラブルに見舞われ続けました。
ついに使用断念のやむなきに至り、人が時計を見て、手でチーンと鈴を鳴らすアナログ方式に変更されたように記憶しています。
スライドを映す段になると我が会員(たしか井上君だった)が足音を忍ばせて、発表者の横にある部屋の照明スイッチを切りに行くのですが、
どうもこのスイッチをオン・オフする時に(あるいは蛍光灯を点灯させる時のグローランプの影響で)ノイズが発生し、それがコンセントから
伝わって、東京天文台製デジタルタイマーを狂わす原因になったようだと、あとで内海先生がおっしゃっていました。
最先端科学の粋を集めて作られたものにも、思わぬ落とし穴があることを知った次第です。その後、この経験を糧に(?)デジタルタイマーは
進化を遂げてきたのでしょう。手のひらに乗るデジタルのキッチンタイマーが100円で買える時代が来ようとは夢にも思いませんでした。
また、たくさんある発表ごとに電気をつけたり消したりするので蛍光灯がくたびれて、点滅状態になってしまって慌てたことも思い出されます。
(蛍光管は、スイッチングの時に大いに寿命を縮めるので、頻繁なオンオフはいけないと聞いていました。今はそうでもないようですが)
懇親会は大学会館2階の大集会室で、賀茂鶴の樽酒の鏡割りで始まり、盛大で賑やかな立食パーティでした。当時、すでに広大の
統合移転計画が立案されつつあり、行き先は西条に決まっていましたから、開会の御挨拶の中で、「この賀茂鶴は広大の移転先の西条の酒で、
西条は酒所で、移転したらまた集まって大いに飲みましょう!」という話も出ました。
先生方の中にはすっかり酔ってしまわれて、誰彼かまわず抱きついてキスして回られる方までいらっしゃいました。電波天文学で有名な
大先生でした。きっと、学会が終わってホッとされて、懐かしい仲間と飲めることがうれしかったのでしょう。
私たちはお手伝い(アルバイトというのが正しいけれど)をしたお駄賃に、タダでこの懇親会に参加させていただき、恐れ知らずといいますか、
なんと申しますか、ちゃっかり・しっかり飲み食いさせていただきました。
そのときは全く考えも及びませんでしたが、これだけの学会を広大で行うためには、受け入れ側の内海先生や村上先生のご苦労は大変なもので
あったろうと、今になって思います。
宴も果て、暗くなった正門あたりに出て、守衛室の明りとフェニックスの葉のシルエットを見ていた自分を思い出すのですが、これはあるいは
事実ではなく、長い年月を経て、私のノスタルジアが生みだした幻想なのかもしれません。
51-Kの記憶
この時の学会に関する、日本天文学会の会報『天文月報』の記事が、インターネット上で閲覧できます。(エライ時代になったもんだ!)
『天文月報』 1976年10月 日本天文学会1976年秋季年会プログラム
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1976/pdf/19761007.pdf
『天文月報』 1976年12月 月報アルバム−年会点描,広島大学寸描・・・写真です
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1976/pdf/19761203.pdf
『天文月報』 1976年12月 日本天文学会秋季年会を広島に迎えて・・・村上先生がお書きになっています。
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1976/pdf/19761211.pdf
(天文月報ホームページTOPは http://www.asj.or.jp/geppou/index.html ここから「バックナンバー」に進んで下さい。)