工学部、先陣を切って西条に移転

「行ってしまった工学部」
                  作者不明

1.  君には 見えない 広島の街                 3. もうすぐ 動くぞ 総合科学

   遠く 離れて 西条にポツリ                     だけども 建物 影もなし

   屯田兵に 学業捧げ                         地ならし工事に 泥あび耐える

   学園都市は まだ遠い                        廃水設備は 夢の中

   地元の反対 押し切って                       地元の産業 踏みつぶし

   移転をするぞ 移転をするぞ 工学部 ♪             実験するぞ 実験するぞ 工学部 ♪



2.  動く気 見せない 生物生産                  4.  法経 理学部 左手うちわ

   早く 来てよと 西条に一つ                      動くもんかと 千田にねばる

   石ころ拾いに 青春ささげ                       教室なければ 講義はできぬ

   計画挫折に あとわずか                        そんな理屈は ここにない

   カエルの鳴き声 耳にして                       青空講義に 白い雲

   辺地でねばる 辺地でねばる 工学部 ♪             涙は見せぬ 涙は見せぬ 工学部 ♪

  

                    そのころ教えてもらった「帰ってきたウルトラマン」の替え歌です
 
          この時期の工学部の皆さんの苦労が偲ばれます。 4番の最後なんか、泣けてきますね。


 男子学生が多いので(女子学生が少ないので)、へんぴな場所へ行っても多少の無理が利くだろうということで
工学部が最初に移転するのだろうとか、「屯田兵」・「工兵隊」として西条へ送り込まれるのだとか、まことしやかに
ささやかれたものでした。

 学部の建物は出来ても、道路やキャンパスの整備はまだこれからという問題もありました。
 また、長年にわたって大学生を受け入れてきた広島市内と違って、下宿を確保するのも大きな問題でした。
 移転第一陣の出発の日(2月8日)、下宿難などを理由に移転に反対する学生が座り込みを行い、当局に
排除されるという事態もあったといいます。

 この年の工学部生の卒業論文なども、時間的制約を受けて大変だったようです。

 大学としては、移転の予算確保も大きな問題でした。メインキャンパス(東千田)と離れた場所にあった工学部を
先に移転させ、その跡地を売って、以後の移転費用に充てようというハラもあったようです。うまくいかなかったようですが・・・。

 戦艦大和の強度試験を行った由緒ある機械などは、移転するだけでも億単位の金がかかると言うことで、
置いて行くことになったと言うような話を聞きました。この機械を移すだけで、工学部移転費用のほとんどを
使わなければならないほどだとも聞きました。(ホントかどうか分かりませんが)

 個人的には、ちょうど自分が大学を出て地元へ帰る時期でした。移転のとき使った段ボールのお下がりを
工学部の友人が持ってきてくれて、私の引っ越しは大いに助かったものでしたが・・・。

 広島を去る日、西条付近を通過する新幹線の窓から、遠くに同じ形をした大きな建物が4棟、並んで立っているのが
見えました。(まだ、東広島駅は存在していませんでした)
「ああ、あれが新しい工学部か。」と不思議な感慨を抱いて、私は社会人になりました。


 会としては、会員に工学部生が占める割合が高いので、活動も大きな転機を迎えることになります。

 西条に行けば、望遠鏡もないだろうと言うことで、この時に備えて会は「移転積立」などをしてきましたが、
過渡期の工学部の会員諸君は、広島と西条を行ったり来たりして、活動の上でも、人間関係を築く上でも、
大変だったと思います。

 この段階での計画では、この後毎年のように学部の移転が行われ、数年後の1986(昭和61)年度には移転が
完了するはずでしたが、予定は未定と申しますか、移転計画は遅れに遅れていくことになります。