蒼穹(天文学研究会版)4号 1977(昭和57)年11月発行に、卒業を控えた方(47年度入会)の追想記がありました。
その時代の雰囲気が手に取るように伝わって参ります。
昭和47年の物価 江本知正
市内電車 30円 インスタントラーメン 18〜30円
食パン 60円 授業料 6000円(半年で)
銭湯 36円 テイネのラーメン 150円
第二食堂のランチ 100円 コンパ代 1000円〜1200円
〃 の中華ソバ 50円 一日の食費 500円未満
一ヶ月の生活費 20000円強
(皆実町で)みそ汁付きのトンカツ定食 180円
しかし、こうやって考えると如何に食うことに没頭していたかが良くわかる。
追想記 江本知正
偏執長が何か書けとノタマウので若い人たちの知らない旧天文学会の話でも書こうと思う。現代の語り部たる小生も来年は晴れて退部できそうなので。
さて、小生が天文学会に入部した頃、すぐ上は4年生であった。大学に入りたての頃、4年生というのは、オッサンに見えたものである。工(たくみ)・瀬良の両氏は工学部で共に大学院に進んだため3年間のお付き合いであった。飯尾・小田両氏は既に結婚されたが、物性学科であった。この他、大学院には横山、星加、田辺などというソウソウたるメンバーがおられた。この連中、コンパの席では丼に酒をなみなみと注いで飲みくらべをしたり、酔ってプロレスをやったり、今の天文研のおとなしいコンパとは比較にならなかった。久●川でコンパをやった時にプロレスをやって、ドロップキックで壁に直径10pくらいの穴をあけ、仕方がないからカレンダーで隠して帰ったという話もある。大体がコンパの席に写真機を持ってくるような人物はいなかった。何故なら、酒が思う様に飲めないからである。ある時などは幹事が酔って金の勘定が出来ないという有様であった。
さて、小生が入部した時、我々の同期は、神森、山根、住吉、星加(弟)、辻、山内、脇山、江本と云った所である。店出しのパンフレットは天の川の中にミリンボシやウメボシがあるといったものであった。山内氏などは内海師の所に行って「入部したいのですがどんなクラブでしょうか?」「いや、麻雀クラブだから入らん方がいいですよ。」と云われたとか。当時、例会は大学開館の二階のロビーでテーブルを集めてやっていた。今のBox(編集者註:東千田キャンパス教養部ドーム下のBox)には本棚があるだけで、実に殺風景なものであった。その後、あちこちから長いすなどをかっぱらって来たり、蛍光灯から電気を盗める様にしたりして、あそこが我々のBoxであるという既成事実を作りあげて終った。
二年生になった時、初めての後輩に、町田、井上(昭)両氏が入部してきた。当時最も積極的に活動していたのは、山内と町田だった。昭和四七年のジャコビニ流星群の時には、中国地方一円で多点観測を計画し、小生も4連カメラを携えて新見に行ったのだが、結果はサンタンたるものであった。48年の夏から合宿を再開。行ったのは辻、山根、工、瀬良、江本の5名。三瓶山であった。続いて秋は道後山へ、参加者は山根、辻、江本の3名。この2回は人数が少なく観測機材は持って行けなかった。で、何をしたかというとメシを食って、山へ登って、夜はロウソクの火の下で歌を唄ったのである。(注、キャンプに酒を持っていく事は当時はなかった。だから、みんなでコーラスをやった。)その時教えてもらった歌に
ねむの木の そのそばで
ほろほろと 泣いた人
風もない夕暮れに
ゆれていた黒髪よ
というのがある。昔は例会の度にみんなでコーラスをして、その最初の曲はいつもこれであったという。今の様に「やりたい奴は勝手にやれ」といういう時代ではなかったらしい。
閑話休題。翌49年、10年前から天文学会にいる様な顔をして陣崎と水野が入ってきた。その他にも沢山いたのだが、今残っているのはこの2人である。新歓コンパの時に陣崎が前述の瀬良氏と大論争をやらかしたのを覚えている。アグネス・チャンがどうのこうのと云っておった。
この年の春に一泊の観望会を開いた。第一回目は冠高原であった。夏は比婆山へ、テント4張りの大キャンプであった。4泊5日で一日も晴れなかった。ほんの束の間晴れた時、「オーイ、晴れたぞー」「この半荘が済んだら行く」で行った時にはもう曇っていた。いやはや。寝袋を並べてその上に板を渡し、毛布をかけてロウソクの灯で麻雀をやった。我乍ら呆れる程である。昼は山の中を駆け回り、夜は麻雀であった。
この頃から「足跡」復刊。また9月頃から光電管を使って変光星観測を始めたが、月食の時に月面の高度変化を見ようとしてセット中、光電管が万有引力の法則に従って落下、大破。以後沙汰止みとなる。
この年の秋合宿は冠高原であった。昼は冠山に登り、夜は大麻雀大会と酒。そして星野写真。ここの星はきれいだった。
翌50年、またも10年来ここにいる様な顔をした掛谷入会。森、岩本達も入ってきた。この夏は深入山であった。テントを日向に張って暑くてかなわなかった。この時に陣崎はローソク責めに会い、彼は以後これがやみつきになったそうな。(編集者註:灯のローソクのロウが垂れてヤケドをしたのです)
で、小生はこれ以後のキャンプには参加していない。従ってこのあたりで筆を置こうと思う。現在の天文研は小ぢんまりとまとまっているし、活動も我々の頃と比べると良くやっている。しかし、寂しいのは、豪傑というか、奇人というか、その手の人物が少ないことである。酒を飲んで逆立ちや受け身をやっても良いではないか。北杜夫は昔、新宿で酔って猿の真似をし、なだいなだが帽子を持って通行人から見物料を集めて歩いたという。その点では魚見と姫宮には期待している次第である。
47江本知正さん 蒼穹第4号 1977(昭和52)年11月の記事より
(編集者より:個人情報保護の観点から一部修正させていただきました。せっかくの文章のリズムがそこなわれてしまっておりますこと、お詫び申し上げます)
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