『 足 跡 』
足跡というのは、我がクラブで使われていたノートのことですが、その性格は次第に変化しているようです。
初め、「足跡」は、例会や様々な行事など、会の活動を記録するためのノートで、書記を決めて書いていたようです。
そして、例会は、1954(昭和29)年2月14日の再開第一回から数えて第何回となるか、きちんと通し番号をつけて記録されていたようです。
こうした記録がずっと続いてきたら、今さら年表など,、作る必要も無かったのでしょうが・・・。
「足跡 No.4」は、1959(昭和34)年12月4日 〜 1961(昭和36)年4月28日までの1年半ほどの期間使用されていました。
その記載を見ますと、例会の記録を書くことはもちろんですが、そこに雅びな表現やウイットに富んだ記述も見られます。
たとえば、1960(昭和35)年2月5日の記載。
150回 1960/2/5(金)立春 ガリレオ望遠鏡発明後250年と150回を重ねた会のため、本年何か行事を持つことを相談。 |
とあって、そのあとに
「そでひじて むすびし水の こおれるを はるたつ今日の 風やとくらむ」
という古今和歌集の歌が添えられています。立春の日の合わせて「はるたつ今日の」という歌をさりげなく添えるあたりはさすがであります。
また、同年7月11日〜16日まで、夏期天文講習会が行われましたが、その記録には
「参加者も多く、熱心に講習会を行った。カトリ線香の煙もゆかしく眠い目をこすって勉学にいそしむ」
などと添えられています。雅びにして遊び心豊かな「記録」ではありませんか。
同じく『足跡No.4』 からの話。
1960(昭和35)年10月5日 月面鑑賞会がありましたが、このころから、書記以外の人が『足跡』へ書き込むことも多くなり、いわば落書きが、次第に増加してきました。、同年11月ごろからは、そこにイラストも混じるようになったそうです。
足跡の性質が、このころからいささか変化してきたということでしょうか。
足跡 No.5は 1961(昭和36)/5/2〜1962(昭和37)/5/18 まで使用。
基本的にはNo.4同様に例会や行事の記録ノートでした
この話は、33細井さんから教えていただきました。
1970年代後半の「足跡」は、会の記録を残すためのノートという性格は無くなっていました。
落書き帳であり、伝言ノートであり、時に何かの出来事の報告の場でもありました。
部室(BOXと言っていました)に来るとみんな必ず目を通して、一種のコミュニティ広場になっていました。
日常の思い・青春の思いのたけを書きつける随筆・随想ノートというと格調高く聞こえますが・・・ちょっと(かなり?)無理があるわなあ。
1977(昭和52)年に会名が変わり、それを期にしばらく行われていなかった例会が復活、週一回のペースで行われるようになりました。しかし、その例会を記録するためのノートがあった記憶はありません。いや、例会ノートって言うヤツがあったかな?このあたりの記憶は完全に風化しています。
ともあれ、例会が何回目であるかといった記録はしていなかったはずですので、「第○回記念」と行ったような企画も行われませんでした。
その後、今日に至るまで、『足跡』は続いているのでしょうか。各世代の皆様、情報をお寄せ下さい。
広大天文研のホームページ(HUAA : Hiroshima University Astronomical Association)に、「HUAAあしあと」という掲示板がありますから、『足跡』の伝統は今も続いているようです。
クラブの「足跡」とは一線を画すものではありますが、OBの『足跡』の話です。
1990年代の中頃から後半に、パソコンが次第に個人・家庭にも普及しはじめたころのこと、パソコン通信というものがはやっていました。
56Magさんがニフティサーブのパソコン通信で、OB向きに「電脳あしあと」というものを立ち上げ、1970後半〜1980年代のOB達が多数参加して、たいへん賑わっておりました。
このサイトは残念ながら今はありません。主催者の56Magさんが、急逝されてしまったからです。まだお若かった事を思うと、本当にお気の毒でなりません。ご冥福をお祈り申し上げます。
そう言えば、 『蒼穹』(私家版)というサイトにも、 「足跡」(私家版)がございます。