2009722 トカラ列島 宝島
  - 皆既!(神よ、トカラ日食のために泣け!)-

皆既へ 


朝は藤色で青空と見分けがつかなかった、高いところを一面に覆っている雲も、
今や雨雲の真っ黒な色となった。その下では、これまた真っ黒い断雲が、
量をどんどん増している。辺りの景色も段々暗くなってきた。

太陽は相変わらず、おおよその位置さえ捉える事ができない。

「太陽は、このあたり?このあたり?しょうがねえなぁ・・・。」
ビデオに記録された私のつぶやきである。

ふと、隣の人を見て驚いた。顔が、なんとも不思議な色をしているのである。普通の肌の
色ではない。日焼けした色でもない。オレンジ色を暗くしたような、不思議な色であった。

これは・・・そうか、太陽の光が弱まってきたのだ。それで、こんな色になるんだ。
太陽は雲の向こう側で、大きく欠けているに違いない。雲が黒いのも、この色に影響して
いるのだろう。

皆既の時は近い。


10:37、音声ガイドをスタートさせる時間。撮影の行程を耳から聞けるようにと、
苦心して準備・録音してきた音声ガイドである。電波時計を見ながら、予定どおり
スイッチを入れる。時刻と音声は見事にシンクロした。音声は30秒刻みで、
なすべき事を次々と伝えてくるが、今その指示を実行できる機材はほとんどない。
太陽さえ見えていれば、この音声ガイドでたくさんの機材を同時に、間違いなく
操作しているはずだったのに・・・。イヤホンを通して聞こえてくる自分の声が、
虚しいばかりである。

辺りは明らかに暗くなってきている。人々が手にしたカメラのパイロットランプや携帯の
画面の明かりが、目立つようになってきた。

皆既になる前には月の落とす影が大きな円錐形になって、西から相当な速度で迫ってくる
のが分かるという。本影錐と言うのだそうだ。こいつなら雲があっても撮影できるのでは
ないだろうか?防水性が比較的高いと思われるNewF-1に17o超広角レンズをつけて、
雲の様子を撮影する。雨粒が当たる事は覚悟のうえ。撮影間隔もなにも、すべて無計画
なまま、適当にシャッターレリーズを押す。慌てていて露出を調整する事を忘れて
しまったため、案の定、結果はさんざんであった。そもそもこの雨もよいの空では、
肉眼でさえ、本影錐らしきものを全く確認することはできなかったのであった。

相変わらずの強風、次第に大きくなる雨粒。暗さが増していくのが、実感できる。
厚い雲の上では、太陽が鎌のように細くなっているだろう。そろそろ第二接触、
ダイヤモンドリングが現れるころだ・・・・。カメラの減光フィルターを外す
タイミングを、今か今かと計る段階に来ているはずなのに・・・。

広角レンズとビデオカメラを使って、周囲の様子の撮影だけが続く。



皆既! 継続時間 5分55秒


皆既まであと1分、相当に暗くなってきた。ビデオに映る人影は、ほとんどシルエット
状態である。

スタッフが大きな声で時間を知らせている。

「・・・30秒前です・・・10秒前です・・・」

完全にダイヤモンドリングの時間だ・・・。あたりはどんどん暗くなり、島全体が
夜の闇に包まれていく。太陽の位置はまった分からない。

「皆既になったぞぉ〜!」

その瞬間、私の背後(海側=北側)から、ドーンと冷たい風が吹きつけてきた。
真夏の地下鉄駅構内で、大型エアコンの前に立ったときの、あの感じにそっくりだ。
蒸し暑かったのが一気に涼しくなる。日食の影響に違いない。

今や雲の上ではコロナが輝き、真昼の星も姿を現している事だろうに、私は何をしたら
よいのだろうか。
暗くて、隣の人の表情も分からないが、みんなあっちを向いたり、こっちを向いたり、
きょろきょろしながら、皆既の闇を見回している。

カメラや携帯のパイロットランプの光点が、海岸線の描く弧に沿って並んで輝いている。
街の夜景を見るようだ。

これだけ暗ければ、コロナのリングの明るさが雲越しに感じられるのではないか?
そんな事を思いつき、その明かりを捜す。

「あれだ、太陽、あそこだ!」

ビデオに残っている私の声である。知ったかぶって、分かったような事を言っているが、
今冷静になって考えれば、あり得ない。強烈な太陽光さえ、雲越しには分からなかった
のだ。コロナの淡い光があの雲越しに見えるはずはない。

ビデオに音声は、さらに私の妄言を記録している。

「まあるくなってきた、まあるくなってきた!」

何が丸くなったのか?丸いコロナを妄想したのか、それとも地平線が周囲180度、
丸く明るくなったのか?今となっては、もはや記憶がない。

たしかに、空の低い部分、地平線(水平線)付近はうっすらと明るさが残っている。
特に、南側の地平近くは、他の方角より明るかった。日除け用に張られた遮光布の方角だ。
微かな明かりをバックに、風であおられた遮光布が悪魔の触手のように波打ってうごめく
のが、シルエットになって見える。しかし、風景全体は夜の闇の中である。


コロナが見えないのだから、ストロボを焚いて記念写真を撮ったって、誰も怒りはしない
だろうが、やっぱり撮る勇気が出てこない。そもそもストロボはしまい込んだまま、カメラに
付けていなかった。今からでは、もはや取り出す時間も無いだろう。

と、その時、闇を切り裂く人工の明かり!TBSの中継車が、
サーチライトで廻りを
照らし始めたのである。なんてことするんだ!旅を終えてからテレビの録画を見たところ
では、東京のスタジオから、「真っ暗で何も見えないですよ!」と盛んに呼びかけて、
明かりをつけさせたようである。ひどい事をするものだ。もし実際にコロナが見ていたと
したら、大ヒンシュクである。私は中継車から離れたところに陣取っていたから、
さしたる影響は無かったが、近くにいたら激怒ものであったろう。まあ、あの空では
別にどうと言う事も無かったか・・・。(激しい風雨で避難勧告が出た悪石島では、
皆既の最中、消し忘れの車のライトに向かって、「明かり消せ!」と罵声が飛んで
いたのを帰ってから動画で見た。やっぱり、皆既中は、どんな状況でも、周りの人への
配慮は必要ですかね・・・。ストロボ焚いて記念写真、やってたらどうなったかな?
1枚だけなら、「あ、うっかり!スミマセン。」と言えば勘弁してもらえたかな?)

宝島に於ける皆既継続時間は、約5分55秒という。今世紀最長の悪石島の約6分18秒
には及ばないものの、皆既日食としては画期的な長さである。この貴重な5分55秒の
間に計画していた事のほとんどすべてが、実行できないままに時が過ぎてゆく。
ただ暗闇をビデオで写しているだけ。きっと何も写っていない、真っ黒なビデオ画面に
なるだろう。これを撮り続ける事に意義はあるのか?(後に確認したビデオ画面は
やはり真っ暗だった。微かに見える地平近くの薄明かりと機材のランプ類の光以外は、
何も写っておらず、激しい風の音と私の妄言が記録されているばかりであった。)

「皆既終了まで、あと15秒!」

添乗スタッフの声を聞いて、私は何を思ったのか、まだ出していなかったカメラAE-1Pを
取り出したい衝動に駆られた。自由に使えるカメラで、皆既が開ける様子を写したくなった
のだと思う。(おそらく、NewF-1のフィルムが終わっていたため、別のカメラを記録用に
出したかったのだと思う。2台あったデジタル一眼EOS-DXはEM-200に装着されていて、
とっさには外せなかったのである。)右手にビデオカメラを持ったまま、もう一方の手で
カメラの入っているRVボックスのフタを開ける。不器用な左手で強引に開けられたフタが、
ガラガラッ・ゴットンと音を立てて地面にひっくり返ったその瞬間、

辺りがパッと明るくなった


「おお!」 「明るい!」

人々の口から歓声が上がる。第3接触だ!皆既が終わり、太陽が復活したのだ。
雲の上では最高のダイヤモンドリングが現れていることだろう!トカラ皆既日食の
ハイライト・・・のはずだが・・・見えるのはぶ厚い雲ばかりである。

太陽のごくごく一部が顔を出しただけだというのに、宝島は夜の闇から一気に
明るくなった。6分近い暗闇に目がなじみ、瞳孔が開ききっているので、いっそう明るく
感じたと言う事もあるだろうが、しかし太陽とはなんと明るい物なのだろう。太陽の
明るさ・力強さ・偉大さを思い知らされた瞬間であった。


チャンスは永遠に去った・・・


辺りは刻々と明るさを増してゆく。「暖かくなってきているよ」なんて声が聞こえてくる。
宝島に、色彩が戻ってきた。

最後まで出番の無かったAE-1Pに17o超広角レンズを付け替えて、辺りを撮影したり、
私を写しに来たテレビカメラマンを、おどけて逆に写したりしているうちに

「さあ、体勢を立て直して、もう一度挑戦だ!」

という思いが湧いてきた。私の中で、再び日食撮影へのファイトが頭をもたげてきたので
ある。

そして、ふと気がついた。

「もう一度、俺は・・・いったい何をしようと言うのだ?」

もはや、皆既日食は終わったのだ。この場所で、二度と皆既は起こらない。チャンスは、
永遠に去ってしまったのである。時間は、決して戻る事はない。この厳然たる事実に
気がついて、愕然とする。

そのとき、最初に思ったのは、『1963721』のことであった。学生時代、
部室にあった古い会誌で読んだ知床日食の紀行文『1963721』。これに導かれて、
私はこの南海の離島まで、皆既日食を求めてやって来たのである。我がバイブル
『1963721』の先輩方は、日の出直後の、高度3度という超低空で、皆既継続時間
もたった30秒という厳しい条件にもかかわらず、皆既日食観測に成功された。なのに、
梅雨明け確実・台風無し・高度はほとんど天頂近く・皆既継続時間に至っては
今世紀トップクラスという条件最高のこのトカラ日食を、どうして俺は見る事ができなか
ったのだろう?

喪失感と空虚感。心にぽっかりと穴が空いた。RVボックスに腰を下ろしたきり、動く気
になれない。空虚、虚脱、脱力・・・。

「俺は何をしにここに来たんだろう?」自分に問うてみる。答えは、どこにも見つからな
かった。

「来年はイースター島へ行くぞ〜!

誰かが、やけくそになって叫ぶ。(翌2010年7月12日 イースター島で皆既日食がある)
その意地やよし!拍手がわき起こる。しかし、負け犬の遠吠え感は否めなかった。


撤収

劇的な強風下の暗闇は去り、風も少し穏やかになったみたいだ。明るさを取り戻した
海岸線には、人々が笑いさざめく声が聞こえてくる。皆既への緊張が解けたのか、
島の空気感はなんだか変わってしまったようだ。

みんなカメラや機材を片付け、三々五々、テント村に引き上げていく。

俺は、これから何をするべきなのか。計画では、12:21の第4接触終了後まで、部分日食
が完全に終わって太陽が復円するまで、撮影を続行することになっている。日食のガイド
ブックにも、「皆既が終わると、すぐに乾杯モードに移行する人もいますが、日食の最後
まで見届けましょう」とあった。それまでまだ、たっぷりと時間がある。しかし、太陽は
相変わらず、その位置さえ分からないのである。

このまま、待機すべきだろうか?「すべきである!」と
理性は虚しく主張するが、自分の
心と体は、もはや完全に萎えていた。今から太陽が顔を出したとしても、「そんなもの
撮影する価値も無い。」としか思えなかった。皆既を逃した今、部分日食には全く興味が
湧いて来なかったのである。

穏やかになっていた空から、再び雨粒が落ち始め、それは次第に「降ってくる」レベルに
近づいていった。丹精込めて作り上げた撮影計画書の文字が、雨粒に濡れて読めない
ほどに滲んでいる。惨めだ・・・。

「もはや、これまでだ。撤収しよう・・・。」

はるばると本土から持ち込んだ巨砲EM-200は、その威力を完全に封じられ、
一発も放つことなく南の島に散った。

時に西暦2009年7月22日、トカラ皆既日食大作戦は完敗に終わったのであった。


嵐の中で

「どうして自分は、日食を見られなかったのだろう?」長く続く懊悩の始まりであった。

自宅でまる2日かかって荷造りしたこれだけの機材を、短時間で撤収しなければならない。
トカラ列島から撤退する観測隊を迎えに来るフェリー「としま」は、悪石島を16時15分に
出て、宝島には18時20分入港予定だ。悪石島より2時間ほど、撤収作業時間に余裕が
あると思っていたのだが、なんと、本土に送り返す荷物の受付は3時(記憶が定かでないが)
締め切りだという。フェリー「としま」の時間までに荷物が出来れば良いと考えていたのだが、
とんでもないことになった。大急ぎで撤収をしなければならない。

雨は次第に本降りになってゆく。海岸線では、濡れてしまって作業ができない。
かといってテント村まで持ち帰るのは遠いし、機材がたくさんありすぎるし、狭いテント
の中では作業にならない。そこで、とりあえず、海岸線近くに置かれたコンテナの脇に
荷物を移す。昨夜天文ガイドの人から日食の説明を聞いたあのコンテナである。雨は
強風に吹かれて横殴り状態。コンテナの風下側に入れば、雨のほとんどは頭上を
通り過ぎていくので、濡れずに作業ができるという寸法だ。

大いに落胆している上に大荷物を片付けなければならない私を気遣って、Nさんや
Yさんが助力を申し出てくれるが、箱詰めには段取りもあるのでなかなか人にお願い
できる代物ではない。助力を断り、コンテナの影で一人作業する姿は、人から見れば
よほどいじけた、悲哀に満ちた姿であったに違いない。

そうこうするうちに雨はますます大粒になってきた。コンテナの風下では、もはや雨は
防げない。

結局NさんやYさんに手伝ってもらって、機材をテント村に運ぶのやむなきにいたる。
居住用のドーム型テントの中での撤収作業は大変だろうなあ、困ったなあ、と思っている
と、テント村入口に張られた大きな天幕(小学校の運動会なんかでゲスト席等によく
使われているやつ)が目に入った。携帯などの充電用に用意されていた天幕である。
幸いに誰もここを使っていない上に、長机が何台も置かれているではないか。この長机の
上に機材を置く。風雨は強まり、天幕の縁からは滝のように雨水が流れ落ちている。雨は
天幕の中までどんどん吹き込んで来るので足はびしょ濡れたが、足高の長机の上に置いた
機材には、ほとんど雨がかからない。よい雨宿り場所を得ることができた。おかげで無事に
機材を荷造りする事ができた。もしこの天幕と長机がなかったら、どれほど惨めな事になって
いたことだろう。本当にありがたかった。

この間、入浴タイムが設定されていたが、撤収作業でそれどころではない。昨日、湯の
あまり入っていない浴槽に入ったきりなので、一度ゆったり温泉に浸かりたかったが、
荷造りが終わらなければ帰りの船に乗れなくなる。友の花温泉保養センターに向けて出て
行くマイクロバスを虚しく見送るが、こればかりは致し方がない。


荷物

二つのRVボックスに収める荷物は、完璧とは言えないが、それなりに何とかまとめる
事ができた。次はEM-200の架台部とその三脚を、購入した時の段ボールに収める番だ。
箱をテントに取りに行って愕然とする。三脚を入れる細長い箱の端っこが、テントに
吹き込んだ雨でグジャグジャに濡れているのだ。もしここに、かなり重たい金属製三脚の
重みがかかれば、箱の端は簡単に破れて抜けてしまうだろう。それでは本土までの運搬に
耐えられない。箱には三脚のほかにも、細長い物をいろいろ入なければならない。えらい
ことになった。

荷物の受け付けが始まった。受付場所は、先ほどのコンテナであった。なんと、これは、
我々の荷物を運んで来たコンテナであったのだ。今また、これに荷物を入れて本土に
向かうのである。
 さきほどの、壊れそうな三脚の箱を、濡れた端を上にして預ける。頼む、この段ボール
が乾くまで、立てたままで保管してくれ、と願う。幸いな事に長い箱は立てた方が収納
スペースが広く取れるためか、縦位置のままでコンテナの隅に収められた。箱は
いつしか乾いて、もとの強度を取り戻したのであろう。後日、壊れずに無事、家に到着した。
これがEM-200本体を収める段ボールだったら、取り返しの付かない事になっていた
だろう。その点だけはラッキーであった。

もう一つ、生活用具を入れた大きな段ボール箱も送り返さねばならない。水不足に備えて、
ミネラルウオータの2リットルペットボトル二本なども入れてきたが、もうこれはいらないだろう。
雨の上がった宝島の土に水をまく。なんだか、宗教儀式をやっている気分になってきた。

今日がこのような天気だったせいか、テントごとに支給された水も結構余っている。
せっかく本土から運んでもらった貴重な水だが、開栓していないペットボトル回収場所が
あったのでそこに返却する。たくさんのまだ飲まれていないペットボトルが積み上がって
いた。

奇跡的に、荷造りは締切時間に間に合った。これらの荷物は「往復宅急便」扱いなので、
送り状がそのまま返送の宛名になっている。改めて荷札を書く必要が無いのはありがた
かった。

コミュニティーセンターへ、宝島最後の食事をいただきに行く。荷造りが忙しい中でも、
食事をする余裕ができたのはありがたかった。昼食はカレー、おいしかった。日食部隊の
敗残兵たちも、少しは心が癒されたであろうか。


感傷

食事から戻るころには風雨も収まり、天候が落ち着いてきた。砂浜に下りたり、テント村
から離れたところまで行ってみたりして、島での最後の時間を過ごす。

TBSのスタッフに「せっかく日本で一番早いダイヤモンドリングを求めておいでに
なったのに、残念でしたねえ」と声をかける。「いえ、私たちは仕事ですから・・・。
みなさんこそ、残念でした。」と慰められる。あれほど避けたかったマスコミの人にも、
今となっては日食観測に敗れた仲間としての連帯感を感じる。

海水浴場の磯の岩に、カニが戯れていた。

「東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる」

石川啄木の歌が身にしみる。

                                                続く

註:第1・第2・第3第4各接触の時間や、皆既継続時間については、同じ島の中でも
観測地点の位置の差や諸要素の関係からか、微妙に違ういくつかの説がある。
この文章では時間に関して、私が参考にした様々な資料や自分の撮影したビデオの
記録から適宜引用している。



                
←前章へ 目次へ  トップへ   次章へ(未作成)→

                          旅のアルバムへ(未作成)