芹洋子の「坊がつる讃歌」がヒット

 NHK「みんなのうた」から大ヒットとなった芹洋子さんの「坊がつる讃歌」。これを聴いた広大出身者の中には、「あれ?どうして?」と思った方も多かったはずです。なにせ、この歌は「広島高師の山男」の歌にそっくりだからです。それが、歌詞が一部は同じ、一部は変わって、しかも別の名前でヒットしているのですから。

 原曲はもちろん1940(昭和15)年8月に作られた広島高師「山岳部第一歌・山男」、通称「広島高師の山男」・「山男の歌」などと呼ばれるあの名曲です。

 芹洋子さんは、九州の九重山方面へコンサートに行ったとき、「いい歌がある」とこの曲を紹介され、採譜してレパートリーに加えたのだそうですが、その当時、原曲や作詞・作曲者については不明のままだったようです。

 「坊がつる讃歌」の歌詞は、1952年、九州大学の三人の学生によって作られたもので、一部に「山男の歌」の原詞も含まれています。
 彼らは、坊がつるの山小屋で、ひまの徒然にいくつも替え歌を作ったそうですが、その一つが「坊がつる讃歌」だったということでした。つまり、「坊がつる讃歌」は「山男の歌」の替え歌であったわけです。彼らは、原曲である「山男の歌」を高校時代の恩師、すなわち広島高師(広島大学)出身の先生から教わったそうですが、まさか、自分たちが作った替え歌が後にこのように日の目を見るとは思ってもいなかったことでしょう。

 その替え歌が、坊がつるの山小屋や九重山を中心に歌い継がれ、芹洋子さんの知るところとなり、ヒットにつながったわけです。

 歌詞については、広島市内の音楽喫茶で、別の歌詞で「雲に消えゆく山男」として歌集に載っていたとの説もあるようです。

 「同じ星へのあこがれを 〜不死鳥のころ〜 」TOPページにある「御礼申し上げます」の中に、関連ホームページを紹介しておりますので、興味のある方は、ご覧下さい。

 また、高師の末裔が原曲に極力忠実に録音したものを大学のホームページで聞くことができます。


 私がこの歌を初めて聴いたのは、何かの新入生歓迎コンパの席でした。宴もたけなわとなってきたころ、助手の先生が、「それじゃあ石藤君、そろそろワシらの歌をやろうか」といって、この歌を披露して下さいました。(石藤君は、私の同級生で、クラブとは関係ない人です。なぜか、先生が石藤君の名を出されたのを鮮明に覚えていますので、記憶に忠実に。)

 歌詞を聞けばすぐにこれは我が大学に縁の深い歌だと分かりますから、ああ、広大にはいい歌があるんだなあ、と感激したものでした。

 幸い、「坊がつる讃歌」が世に出る前のことで、オリジナルの方を初めに知ることができてラッキーだったと思っています。

 この歌は『高師』の、しかも『山岳部』の歌ですから、「ワシらの歌だ」と胸を張って言える人は極めて限定されるわけですが、まあ、みんなひっくるめて「ワシら」の歌と言うことで・・・。

 替え歌である「坊がつる讃歌」が巷で流行っているのに激怒した向きも多かったようですが、私はどちらかと言えば「ワシら」の歌が流行っているようで、うれしかったです。実は同じ頃、仙台を歌ったさとう宗幸さんの「青葉城恋唄」というのが流行っていて、東北の大学にいっている何人かの友人の事が思い起こされ、「青葉城恋唄」が仙台なら、広島には「坊がつる讃歌」があるさ、と思っていたものでした。

 私も替え歌を作るのは好きなので、この歌をパクって天文研用の替え歌にできないかと色々考えてみましたが、うまくいきませんでした。ということで、今、歌い出しをパクって、このコーナーのタイトルにしているわけです。

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