涙なしには語られぬ・・・

  西条屯田物語


移転が始まった頃の西条キャンパスは、どんな様子だったのでしょうか?

工学部が移転した1982年に、ちょうど工学部3年生になった(すなわち初代屯田兵として西条送りとなった)55中村さんが、編集者の質問に、メールで答えてくださいました。

Q:西条の下宿や寮の事情はどうだったのでしょうか?西条キャンパスの環境や雰囲気はどうだったのでしょうか?

A:僕は海田町に住んでいました。これはかなり特殊ほうでした。自宅生以外は西条付近の学生向けアパートか大学が造った寮に住んでいました。とはいえ55生が移る時は学生向けアパートはほとんど無く共同便所炊事の下宿に近いものだったような気がします。56が移るころには学生向けアパートが乱立してきたような・・・56-D君の引越しを手伝った記憶から6畳+k+風呂便所付が標準でした。でも食事の方が大変だったような気がします。基本は大学の学食。寮には共同炊事場もありましたが、3食学食というのがほとんどだったような。男ばかりの工学部、1つしかない学食で、中の人も新規でしたので若い学食のおねーさんというのも存在し、「学食のおねーさんと合コン」という信じられないような事態も起こっていました。余談でした。


Q:西条へ移転した工学部の皆さんは、どうやってクラブとつながっていたのでしょうか?合宿は一緒にやったと思いますが、例会や、普段の観測などは、どうだったのかなあ?西条のメンバーだけでも、活動はしていたのでしょうか。本部との行き来は結構頻繁だったとは思いますが・・・。他のクラブの工学部生は、どうしていたのでしょうか?西条に部室はあったのでしょうか?移転して間もなく、クラブの移転積立金で望遠鏡を買ったようですが、それはどのように保管されていたのでしょうか。たとえば、誰かの下宿に置いてあったとか、部室に置かれていたとか・・・。その望遠鏡は今どうなっているのでしょう?

A:55生の移転時には工学部各類の校舎と学食棟と電算室の建物施設、離れて寮があったくらいでしたので、サークル活動を西条でできる状況で無かった気がします。(図書館さえ無かったです。講義の一環で図書館のコンクリート打ち現場を見学しました。)サークル活動するためには千田のキャンパスに行かざるえない状況でした。56が来た後サークル棟ができましたが割り当てられたスペースが狭く僕は使った記憶がありません。ですから西条用の望遠鏡を購入したのは僕が卒業した後だと思います。ここら辺は57-M君の方が詳しいと思われます。

雪景色の写真は僕が卒業する年、広島に大雪が降って2号線通行止めで、1週間校舎に缶詰になったときのものだと思います。



                      以上、55中村さんからのメールでした。Q:は編集者から質問した内容です)

やっぱり悲惨です。屯田兵として全学の先遣隊となった工学部の皆さんのご苦労が偲ばれて、どうしても、あの歌を口ずさみたくなりますね。


移転開始から10年が過ぎ・・・

工学部 1982(昭和57)年3月,、生物生産学部 1988(昭和63)年3月、教育学部1989(平成元)年9月・理学部1991(平成3)年9月と、当初計画より遅れに遅れながら、それでも移転は進んでいきました。

移転開始から10年以上が経って、1993(平成5)年3月、総合科学部が西条に移転します。総合科学部には、文系理系様々なコースがあり、さらには一般教養課程をも担当していますから、関係する教職員・学生の数も大変多く、さらには東千田キャンパスに於ける建物が狭隘だったため、仮設のプレハブに入っていた研究室も数多く、しまいには国鉄(後にJR)払い下げの貨車やコンテナまで使ってスペースを確保していましたから、引っ越しは大騒動であったと言います。

一般教養を担当する学部の移転によって、大学の中心も西条に移ったと言うことになるわけですが、総合科学部移転当時の西条キャンパスの様子を知っている人に話を聞く機会に恵まれました。

総科移転当時、西条キャンパスは舗装がされておらず、敷地内はぬかるんでいて、長靴で大学に通ったものであったと、彼はしみじみと語ってくれました。

移転開始から10年以上、半数以上の学部が移転した頃でさえ、西条キャンパスはそんな状態であったようです


屯田生活はなかなか終わらなかったということでしょうか。