2009722 トカラ列島 宝島
- 皆既前日 朝-
テント村点描
暑くて寝苦しいテントの中にも、どうやらまどろみが訪れたらしい。いつの間にか
意識がなくなり、気がつくとすでに明るくなっていた。テントを抜け出すと好天で、風が
爽やかだ。どうしてテントの中に風が通らないんだろう、と思いつつクツを履いて立ち
上がると、宝島の風景が目に入ってきた。昨夜の上陸以来、今朝までずっと真っ暗闇の
中だったので、初めて目にするこの島の風景である。
テント群の向こうは広場のようになっていて、その先に牧場の柵のようなハブよけ
ネット。柵を出ると、丸く大きな入り江があって、これが海水浴場だろう。そのわずか
先はもう外洋で、沖にゴツゴツとした島が浮かんでいる。小宝島だろう。「小舟で簡単に
渡れるのではないか」と錯覚してしまいそうなほど、それは目と鼻の先にある。ここは
絶海の孤島だと思っていたが、お隣さんは意外なほど近くにいたのである。
朝のお散歩に、柵の外へ出てみる。背後から爽やかな朝風が、海に向かって吹いて来る。
入り江の一番奥の海岸線は、砂浜に降りるための階段として舗装・整備されていて、階段
を下りると、底はきれいな白い砂である。(海水浴場にするため、人工的に入れた砂だ
そうだ。)
この一帯は、平たい巨大な一枚岩で、その一カ所だけをくり抜いたように、丸く
入り江ができている。入り江は径100メートルほどの円形(楕円形?)で、海とつながっ
ている部分は極めて狭い。この地形を空から見たら、金星日面通過の第3接触で太陽の
縁に微妙に触れている金星のように見えるであろう。
岩はおそらく隆起サンゴなのだろうが、溶岩と見間違えてしまいそうな、黒に近い
こげ茶色だ。それが、海際まで水平に広がっていて、今、私が立っている入り江の奥の
海岸線と、海際の岩の上とは、ほぼ同じ高さに見える。その向こう側は見えないが、海面
まで2〜3メートルの断崖になっているのではあるまいか。
入り江の内側は、岩の壁でぐるりと取り巻かれていて、海へつながる所だけがスリット
状に細く開いている。これなら外洋の高い波は中に入って来ないだろう。ここはプール
並に穏やかな海水浴場なのだ。
入り江から上がったところにはコンクリート造りの高床式になった建物。レストハウス
だというが、売店などはなくて、中は会議室風のスペースになっていて、多目的に使え
そうだ。床下は倉庫などのスペースだろうか。脇に水洗トイレが付属している。(少人数
なら水洗トイレを使っても水不足にはならないのだろう)
海岸線によしずで周りを囲んだ怪しげな車が置かれている。近づいてみると、「TBS」
と書かれたテレビ中継車だ。ムムッ、昨夜、フェリー「としま」の接岸を写しに来た
カメラクルーも、テントの前で闇の中から突然マイクを突き出してきたのも、さては
TBSの仕業であったのか?マスコミに取材攻勢をかけられるのはカンベンだなあ。
彼らはなぜ、悪石島に行かないんだろう?
中継車の近くに、背の低い松(?)が群生している。下が固いサンゴの岩で、波風も
強いために大きくなれないのか、まるで高山に生えるハイマツのようだ。その松の群れの
中に、小宝島に向けてパラボラアンテナが二つ、水平に設置されている。これでマイクロ
ウエーブでも飛ばして、本土に向かって中継をするのであろうか?(あれ?パラボラは
受信専用だったかな?)
海辺を一回りして、テント村に戻るとエンジン音が響いていた。ガソリン発電機が
動き出したのだ。カメラや赤道儀のバッテリーを充電出来るか、準備段階からずっと不安
だったが、よかった、これで電源問題は一気に解決だ。さっそく、昨夜までに消費した
カメラとビデオのバッテリーを充電させてもらう。
この電源にはOA用の6口のタップがつながれているのだが、6個目のコンセントに
次の線が差し込まれ、それが延々と繰り返され、見かけは一本のコードだが、回路図に
したら、恐るべきタコ足配線になっている。大丈夫かなあ・・・。この電源を使う
ほとんどの人は、携帯電話の充電が目的のようであった。携帯電話の充電など、週に一回
だけで済んでしまう私は、完全に時代から取り残されているらしい。電源は、もっと日食
関係の機材に使われると思っていたのだが、それは意外に少なかったようだ。
コミセン
朝食は、島のコミュニティセンターでいただくことになっている。そこまで車で連れて
行ってくれるのだが、食事の会場にはいっぺんに全員は入りきらないようで、このテント
村の住人達はいくつかの食事グループに分けられている。
食事に出発する前に、我々はテント村の出入り口の所に集められ、スタッフから本日の
連絡を受けた。朝食に行く車の割り振り、島内案内の割り振り、入浴の割り振り(私は
なんと、午前中の入浴だ)、昼食の割り振り、午後のオプショナルツアーの割り振りetc、etc。
200人ほどのテント村の住人をその都度いくつもか班に分け、さらに何台かの車に分乗
させて、何度も何度も、一日中移動を繰り返す。次から次へと複雑怪奇に巡るこのスケジ
ュールを管理するのは、大変なことであろう。私には絶対にできそうにない。スタッフは
プロの旅行業者さんだろうが、頭が痛くならないか、目まいがしないか、人ごとながら
心配になる。
もう一つ、重要な注意があった。海水浴のことである。入り江の海水浴場は、満潮の
前後しか泳げないというのである。波はこんなに穏やかに見えるのだが、海につながる
部分が極めて細いというこの入り江の構造上、潮が引いていくときに出口付近で流れが
急に速くなって、外洋に吸い出される危険があるということだろうか。満潮は日に二回。
その時はライフセーバーも監視に当たってくれるというが、それ以外は遊泳禁止だという。
柵の出入り口横の掲示板に、食事や入浴のタイムスケジュールと、海水浴可能な時間帯
が張り出された。なんと、本日の満潮は、早朝と夕方である。朝の満潮はもう過ぎてしまった。
夕方は島の人々との交流会がある。今日泳ぐのは、ちょっと難しいかな・・・。
明日は・・・皆既の当日!泳ぐ時間はないだろう。山国育ちの私たちにとって、海への
憧憬は強烈なのである。せっかく水着を新調して来たのに残念だ。
一通りの説明が済んで、マイクロバスやワゴン車に分乗して、朝食に向かう。これも、
テント村の全員が一斉に出発するわけではなく、いくつかのグループに分かれて、
何回かに、である。運営する人は本当にご苦労さまだ。
車は、両側に人の背丈の倍ほどの藪が緑濃く密生している道を抜け、港の近くへ出て、
そこで向きを変えて坂を登る。この坂が、江戸時代にイギリス人と銃撃戦が行われたと
いうイギリス坂であろう。
この坂あたりから民家が見え始め、坂を登り切ると平坦なところに出て、集落の中心、
コミュニティセンター、通称「コミセン」に到着である。テント村から車で五分ほど
だろうか。
コミセン前の広場(駐車スペース?)にはひもが張りめぐらされ、そこにいくつも提灯が
吊り下げられていて、まるで盆踊りの会場のようだ。玄関脇には島の子供達が作ってくれた
来島歓迎の看板と、タタミ一畳ほどもある大きな七夕の絵が飾られている。島をあげての
歓迎ムードがありがたくなる。
七夕の絵の笹に、子供達の願いを書いた短冊が貼ってあった。
「台風が来ませんように」
「晴れますように」
「お天気になりますように」
「どうか雨がふりませんように」
「きれいな写真が撮れますように」
「すてきなおもいでがつくれますように」
子供達の願いはみんなの願い!ありがたいではありませんか!台風は当分来そうもあり
ません。だから、雨も降らずお天気になって、きれいなダイヤモンドリングやコロナが
見えて、写真もバッチリきれいに撮れて、一生忘れられない、皆既日食のすてきな思い出
が作れますよォ。
朝食を待つ間、コミセンの周りを歩いてみる。まず目についたのは、広場の脇の大きな
島の案内版である。島の絵地図が大きく描かれ説明文もついているが、ここが小説「宝島」
に大変縁の深い島だということが説明文のスペースの半分以上を占めている。
道の向こうの、長い大きな葉をつけた南国風の木は、もしかしたらバナナの木だろうか?
その木陰にベンチやテーブルが置かれていて、ここは島の人々の憩いの場になっているので
あろう。
民家の脇に、直径1メートルもあるような、黒くて平べったい蓋付きのカゴが置いて
あった。これって、よくテレビで見る、ヘビを入れるカゴじゃない?おいおい、トカラ
ハブって、こんな大きなカゴに入れるほど、ワンサカいるのかい?不安が鎌首をもたげて
くる。昨夜、テントの中は暑くて耐えられなかったが、もし外に出て寝ていたら、ハブに
やられたかもしれない。ハブよけネットの下にはけっこう隙間があったし、周囲にはうっ
そうと、人の背の3倍も高い草が密生している。昨夜私は、命拾いをしたのかもしれない。
コミセンの壁には「十島村高齢者コミュニティセンター」と書かれてはいるが、いかに
も公民館と言った作りの建物だ。ここは島の集会所であり、フェリーの切符売り場でもあ
り、十島村の宝島出張所でもある。皆既日食のこの時期は、ここに警察官も駐在するし、
さらに我々の食事の場にもなるのだ。
クツを脱いで中に入ると、板敷きの広間に長机とイスが並べられ、食堂となっていた。
バンダナを三角巾にして頭にかぶった女性が何人も世話をしてくれるが、皆さんおそらく
島の方であろう。あの若い方など、もしかしたら学校の先生なのではあるまいか(真偽の
程は不明だが、そんな雰囲気を醸していらっしゃった)。島をあげて我々を迎えてくれて
いるのだ。御飯はパックライスが一個。おかずはバイキング形式で取るようになっており、
お皿は紙製だが、おかずの質と量はなかなかのもので、旅館のバイキング式朝食と大差
ない。旅行案内には、「食事はパックライスとレトルト食品」と書いてあったが、思いの
ほか良い食事である。
これによく冷えたペットボトルの水が一本。テント村では冷たい水は飲めないので、
うれしいサービスだ。食事が済むと、交替に次のグループが入ってくる。受け入れる側の
皆さんは、本当に大変だと思う。
コミセンの玄関をでると、軒下の棚に、赤電話が置かれていた。テレホンカードも
使えなければ、百円玉も使えない、十円玉だけでかける懐かしいやつだ。わざわざ
ドコモの携帯を借りてきた(トカラではドコモの携帯しか使えない)けれど、なあんだ、
最低限この赤電話があれば、本土とも通話できるではないか、などと思う。もっとも、
長距離電話をするためには、山ほど10円玉を用意しないといけないだろうけれど。
しかしこの赤電話、相当に年季が入っていて、あちこちに厚くサビが浮き出している。
いや、古いも古いのだろうが、ここは軒下とは言え、屋外だから、潮風に吹き晒されて、
錆びてしまったのだろう。本当に使えるのだろうかと裏を見ると、電話線はちゃんと壁に
引き込まれている。今も現役でがんばっているに違いない。
コミセンの建物にくっついて、小さな店があった。宝島には店があるのだ!ガラスの
引き戸の入り口を入る。中は十畳ほどの広さで、レトロな木造の物置小屋、という感じだ。
室内には、カンナをかけていないような材木を使った、手作り感たっぷりの棚が所狭しと
設けられ、食料品や日用雑貨からクギのような金物まで、あらゆる物がびっしりと並んで
いる。道を隔てた向かいの小屋にはドラム缶も置いてあり、ガソリンや灯油も扱っている
のであろう。島に一軒しかないお店は、質素で小さいけれども、何でも扱っている便利な
お店、本当の意味での「コンビニエンス」ストアなのである。
朝食を終えたツアー客も何人か店に入っている。私も、なにか土産になるものでも
ないかと店をのぞいてみた。白地に青く、絞り染めで皆既中の太陽とコロナをイメージ
したTシャツがあるが、数千円、ちょっとお高い。同じデザインのバンダナ、こちらは
お安かったので、記念に一枚。さらにこの島の名物はないかと見ると、宝島オリジナルの、
天日干しで作ったと言う塩があった。手のひらに載るような小さな袋で五百円。塩の
お値段としては超々高級品だが、五百円なので何袋も買い占めて土産とする。
(関心のある方は、こちらへ → http://tokara-takara.com/?pid=25920896 )
店番は、皆既日食の図柄を絞り染めにしたTシャツを着た島の女性であった。
店の入り口に、営業時間を書いた紙が貼ってある。
後で知ったが、この、朝夕しか営業しないタタミ十畳ほどのお店こそ、トカラ列島
十島村で最大の「ショッピングセンター」なのであった。トカラの人々の暮らしぶりに、
深い感動を覚えずにはいられない。
島の中心部
テント村へ帰る前に、島内の主要部分を案内していただけるという。生け垣と言うべき
か林と言うべきか、道の両脇に常緑樹が繁茂している気持ちの良い小道を、二十人くらい
で歩いて回る。
コミセンを出て右へ進むと道に沿って墓地がある。これを過ぎて左折すると下り坂に
なり、まず左手に公衆浴場(友の花温泉保養センター)が現れる。白いコンクリの壁で、
玄関こそ大きめだが、ちょっと目には民家のようだ。説明がなければ、公衆浴場、いや、
保養センターとは気がつかないだろう。
もう少し下ると、診療所。いささか古くて色あせたモルタル作りの建物だ。普段は
お医者さんはいなくて、看護師さんが一人でここを守っているという。今回の日食の
期間中は医師も派遣されて来ている。できればお世話にならずに過ごしたいものだが、
ともかく今はこの存在は心強い。
道を挟んで、反対側に郵便局。これはまだ新しい。開放的な大きいガラス窓と白い壁、
その前に設置された赤いポストが印象的である。私の住んでいる田舎町の郵便局と同じ
ような外観・同じような大きさの建物だ。今日はまだ、局の窓口は開いていない。
ここで、兼ねて用意の「皆既日食ヲ見ニ宝島ヘ来テイマス」と書いたハガキを、大量に
ポストに投函する。本当は明日、日食を見終えて、窓口で日付けの入ったスタンプを
しっかりついてもらってから投函したいのだが、明日は日程がタイトなので、今のうちに
投函する事は来島する前から織り込み済みであった。今の天候の状態を見れば、文面を
「我レ日食観測ニ成功セリ!」なんてしておいても良かったなあ、などとも思えてくる。
ウッフッフッ、勝利はすでに我が手中にあるのだ!ま、いいや。自慢話は、帰ってから
たっぷりとしてやればいいのさ。高慢かつ不敵な笑みがこみ上げて来た。
郵便局のところで、左折し、さらにもう一回左折して民家の点在する坂(イギリス坂?)
を登ると、もうコミセンの前に戻って来た。イギリス坂については、案内の方から特段の
解説もなかったが、これで集落のほとんどを回り終えたらしい。島の主要部分とは、
コミセンから下の一帯、徒歩五分ほどで一回りできてしまうような場所なのだ。ただ、
このコースに、島の小中学校が入っていなかった。学校はコミセンより少し上の場所に
あるらしい。ここを見れば、人が生活している場所の本当に全てを見たに等しかっただろ
う。学校も日食ツアーの宿泊場所になっている。学校には泊まらない我々テント村の住人
には案内不要と判断されたのであろう。たしかに、ツアー客が島に滞在するために当面
知っておかねばならぬのは、コミセンと風呂と診療所と郵便局ぐらいなものであるが・・
・。残念ながら島を離れるまでに、ついぞ学校を見る機会は訪れなかった。
コミュニティセンターから、再び車に分乗してテント村に戻る。
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