2009722 トカラ列島 宝島 -そもそも日食とは-
そもそも日食とは
古代エジプトの太陽神アメンを象徴する有翼日輪(翼の生えた太陽)のデザインは、
皆既日食の時の太陽とコロナを表現したものだと言う説がある。皆既日食を見た強烈な
印象がこのデザインを生んだというのである。
( 斎藤尚生 氏 著 『有翼日輪の謎』中公新書 昭和57年刊)
また、日本における天の岩戸神話は皆既日食を象徴しているということは、よく言われ
ることである。
事の真偽はともかくとして、皆既日食という現象がいにしえの人々に与えたイメージは、
強烈であったろう。いや、今日においても、そして未来においても、その強烈さは変わる
ことはないであろう。
そもそも日食は、天変中の天変とされ、最も忌むべき不吉な天文現象のひとつであった。
地球上のすべての生命の源である太陽が欠け、時には真っ暗になってしまうのである。
これほど恐ろしい事態は他にないであろう。
昔の人々が日食を見て恐れを抱くのは当然の感情である。
今回の日食でも、インドでは日食を恐れるあまり女性が気を失ったというニュースが
あったが、それが本来、我々が日食に対して抱くべき畏怖なのかもしれない。
命がけの日食予報
いにしえの天文学は深く権力と結びついていた。ひとつは権力の名において暦を作ると
いう側面から。もうひとつは、権力の運命を占うという側面からである。
暦のもととなる日・月・星の観測は相当古くから積み重ねられていた。その結果として、
月が太陽を隠すという日食の原理も、かなり古くから理解されていたようである。
だから日食は、今日ほど正確ではないにせよ、昔においてもかなり予報可能な現象であ
った。
したがって、庶民はともかく、権力者たちはある程度日食の原理を知っていたはずであ
る。
原理がわかれば恐れることはないだろう、と思うのは現代人の感覚である。
権力のシンボルであり、信仰の対象でもある太陽が欠けるなど、たとえ部分日食であろ
うともあってはならない凶兆なのである。
我が国では、日食をはじめ様々な天文現象がどのようなことを暗示しているか、中国か
ら伝来した書籍などを手本にして占われたが、日食を吉とすることはなかったであろう。
古代日本の朝廷においては、日食が予報されると数百人の僧に読経を行わせたり、神社
に幣を奉り、さまざまな供物を奉納して日食が起こらないように祈ったりしたという。
日食予報は、はずれれば、それはある意味めでたいことなのである。また、曇って日食が
見えなければ、それもめでたいことであった。どちらも神仏のご加護のおかげで、あるいは
権力者の徳のおかげで、日食が起こらなかった、ありがたや、ということになるからである。
大昔の中国では、予報にない日食が起こったと言うことで、予報官が処刑されたという
言い伝えもあるという。予報が外れればめでたいと言われ、予報にない日食が起これば
死刑もある、となると、日食予報は乱発しておくのが一番、と私などは考えてしまう。
新月のたびに(つまり旧暦=太陰暦の毎月1日ごとに)日食を予報しておけば最も無難
だと思うのだが、さすがにそこまでいいかげん、というわけにはいかなかったらしい。
いにしえの中国で新たな暦法が考案されると、少し遅れるが、我が国でも基本的には
それが導入されることになる。新しい暦法ほど精度が高くなるので、日食予報も、しだい
に精度が上がっていったようだ。(ちなみに日食計算の正確性が、暦法の精度の指標のひ
とつであるという。)
それでも、いや、それゆえに、いにしえの予報官は、文字通りクビをかけて計算に追わ
れていたであろう。
昔の我が国の歴史書の日食の記録のほとんどは、実際の観測結果ではなく、予報をもと
に記録されているという。この予報を、現代の計算と照合してみると、日本では見られな
くとも世界のどこかでは日食が実際に起こっていた、という例が多いようである。
当時の予報官は、あくまでも計算に基づいた日食予報を出していた。自らの保身のため
に、いい加減な日食予報を乱発するというようなことは無かったようである。古代日本の
日食予報からは、彼らの意地とプライドが感じられるではないか。
最近知ったことだが、それでも、予報できなかた日食が起こったこともあったようで
ある。我が国の官選の国史はその日食を記録していないという。
お国の権威に関わるからであろうか。そのとき、我が国の予報官たちには、どのような
お咎めがあったのであろうか?今のところ、私はそれも知る資料を持っていない。
今回の日食ではずっと悪石島が皆既継続時間が一番長いとされてきたが、月の地形が
詳細に分かってくると、月の谷間から漏れ出す光の関係から、隣の諏訪ノ瀬島の方が実は
2秒ほど長いと言うことになったようである。
日本の月周回衛星「かぐや」が月の地形を観測しなかったら、日食の時までこのことに
誰も気づけなかったわけである。(マスコミは、このことを知らなかったのか、あるいは
取材の都合からか、最後まで「皆既時間最長の悪石島」で通してしまった。)
現代の日食予報でもこういう事が起きるのだから、古代の日食予報の精度は、まあ、大
いに評価していいと思う。
ちなみに、今回の日食の一週間ほど前、トカラ列島の天気は「晴れ時々曇り」と予報
されていた。数日前には「曇り時々晴れ」に変わったが、結果はあの通りであった。
しかし、荒天を予報できなかった担当者が処罰されたと言う話を、寡聞にして私は
知らない。いや、昔と同じように、日食が現れないのは、めでたいことなのであろうか?
日本古代の日食
我が国における日食の記録は日本書紀、推古天皇36年(西暦628年)3月2日を初見
とするようだ。この日食は正見したらしい。
その後もしばらくは、あまり日食の記事は見られないが、数十年後には一気に増加して
来る。持統天皇の時代、西暦680年代ごろからは、毎年のように日食の記事が見られる
ようになるが、日本で見られた日食と見られなかった日食が半々ぐらいの割合で記録され
ているようである。先ほども述べたように、古代日本の歴史書に出てくる日食の記事は、
実際の観測結果ではなくて、日食予報の方を記録したものが多かったということなので
ある。進んだ暦法の導入が日食予報=日食記録の飛躍的増加を生んだようである。
古代の歴史書に書かれた日食記事は、「日、蝕え尽きたり」(オリジナルは漢文)
という数文字程度のもので、きわめて手短かである。日食の具体的な様子などを記した
物はほとんど無い。そして、その日食がどのように占われたかも書かれていない。
なぜならその占いこそ、最高レベルの国家機密・軍事機密であったからに他ならない。
日食はその年の元旦までに担当機関(陰陽寮という)で予報計算をすませておき、日食
の8日前までに上級官庁(中務省という)へ上申する規定になっていた。
当然、予報と一緒に占星術的意味合いも上申されたはずであるが、この文書は密封され
ていて、ほんの一握りの、権力の中枢にいる者しか見られなかったようである。担当機関
(陰陽寮)にあっても、占いを行った人以外は、それを見ることは許されなかった。
担当機関にあって暦や天文学を学んでいる学生でさえ、それを見ることを許されなかっ
たという。当然の結果として、日本書紀以下の歴史書にもそれは記録されなかったのであ
る。
どのような占いが下されていたのか、その内容が書かれているとまた興味深いのだが、
当時の歴史書はなにも伝えてはいない。(私が見たごく狭い範囲で、ですが・・・)
日食が予報されると、前述のように日食よけの読経などが行われ、日食当日は政府の
機関も日食廃務といって仕事を取りやめ、役人達はそれぞれの役所を守ることに専念する。
天皇も政をしない。天皇の御座所を包み隠した事もあったと言う。大きな神社の祭りが
取りやめになったこともあった。恩赦を行うことで災いを避けようとした、という記録も
ある。元旦と日食が重なるのはまずいので、暦を意図的に操作して両者が重ならないよう
に調整したことさえあったらしい。
彼らは、日食の不吉な時間が過ぎるのをひたすら身を慎んで待ったのであろうか。それ
とも、日食予報は毎年のように出されているから慣れっこになっていて日食の日は
形どおりの物忌みをして「今日は仕事をしなくていい日」ぐらいの感覚で過ごしたので
あろうか。(ちなみに、日食の時間が過ぎると、役人達は帰宅してよい規定であったよう
だ。)
おそらく、当時の人々は恐れおののいていたのでは無かろうかと想像する。貴族で日食
の様子を観察してみようなどという物好きな輩は一人もいなかったに違いない。
少し時代が下って、西暦877年には、次のような記録が残されている。夜の日食、
すなわち世界のどこかでは起きているが、日本では見えない日食についての議論である。
そのころは、担当機関(陰陽寮)では規定により、夜の日食は上申しない事になってい
た。
だが、「日食は国家の急務である。夜の日食といえどもすべて報告し国家として慎む
べきであろう」、という意見を唱える者が現れ、結局この意見が通った。
夜の日食は報告しないというしきたりは50年近く続いて来たが、このとき改められる
ことになったという。
「日食は国家の急務」というところに当時の人々の日食観の一端がうかがわれると共に、
日食予報の精度もかなりのものであったことが分かる記事として興味深い。
ちなみにこの日食、欠け始めは「子三剋三分」終了は「寅二剋一分」とされており、
かなり精密な予報が行われていた事も分かる。(私、典型的文化系人間=数学が苦手。
どのような計算が行われていたかは全く分かりません。申し訳ありません。)
中世・近世の日食
中世・近世において、日食がどのように見られていたか、不勉強ゆえに私は知らない。
おそらくは、古代同様、不吉の象徴であり続けたのではないかと想像するばかりである。
1183年源平合戦の水島合戦の時に日食が起こった。事前にそれを知らなかった源氏方
は動揺し、知っていた平氏方が勝ったということがあったそうだ。
江戸時代あたりになると、「日食を自然現象として冷静に見るべきだ、星占いは
当たったためしがない」、という事を書いた本も著されているようである。そうなると、
日食の観測や見物をする人間も現れてきたかもしれないなあと、これまた想像するばかり
である。
近代・現代の日食
近代、すなわち明治以降になると、日食に際して観測者(学者)はもちろんのこと
一般人も多く日食を見物するようになってきた。
昭和11年、北海道で見られた皆既日食に際して、新聞各社が報道合戦を繰り広げて
いた様子が、我らが村上先生の『いつか来た道』に紹介されていたのを思い出す。
要約すると、以下のようである。
日食の写真をいかにして他紙より早く紙面に掲載するか、新聞各社は競い合っていた。
そのためには、日食を写したフィルムを一刻も早く現像に回さなければならない。そんな
中、A新聞社は、村上先生が撮影された日食のフィルムを密かに分けてもらうことに成功
した。そのフィルムは自動車(三輪車)で運ばれて行く。するとその上空に朝日の飛行機
がやって来た。飛んでいる飛行機から綱をつけた袋が吊り降ろされる。その袋に、走る車
からフィルムを入れ、飛行機に吊り上げ、現像設備のある町へ運ばれたというのである。
アクション映画さながらの荒技である。昭和初期には皆既日食が、世紀の天体ショーと
して国民的関心事になっていたことを示すエピソードである。この荒技のことは、A新聞自身
も記事にしている。
そして、昭和38年 1963年7月21日の北海道日食である。時あたかも有人ロケ
ットが飛び始め、米ソの宇宙開発競争華やかなりし頃であり、人々の宇宙への関心は
最高潮に達しつつあった時期であったろう。我らがクラブの大先輩方の遠征隊をはじめ、
数万人がこの日食を見に出かけた。日本人最初の宇宙飛行士となった毛利衛さんも、
学校をサボって(いや、休んで)この日食を見に出かけ、宇宙を志すようになったという。
そして、これが20世紀に日本の陸上で見ることができた最後の日食であった。
この後、当分は日本で見られないということもあって、海外へ出かけて日食を見ようと
いうアマチュアが次第に増えてきた。日本の経済成長とも無関係ではあるまい。海外へ
渡航する条件も次第に整ってきていた。いつの頃からか、日食ハンター・日食病という
言葉も生まれてきた。1963年の日食は、そう言う意味で、ターニングポイントと
なった日食であったという。
人心を惑わす天文現象
今日、天文ファンはもとより、世間が大騒ぎする天文現象ベスト3を挙げるとしたら、
皆既日食・大彗星・大流星雨であろうか。
皆既日食・彗星は古代においては天変中の天変、大凶兆であった。流星雨に関しては、
ちょっと自信がないが、これも大天変であったに違いない。
それらを恐れるか、珍しがるかの違いはあっても、天文現象が人身を惑わし世間を騒
がせるという点においては、昔も今もさして違いはない。
流星雨には裏切られ続けた。
1972年のジャコビニ流星群の空振りを皮切りに、しし座群は「オオカミ少年」の寓話
を地で行って、あっぱれ!2001年の大々々出現を見逃した。
大彗星はいつ出るか、見当がつかない。
ウエスト(1976)、百武(1996)、へール・ボップ(1997)の大彗星は拝めたが、巨大化が
期待されながら尻すぼみに終わった彗星は枚挙にいとまがない。
唯一、皆既日食だけは、天文学者の計算によって、いつ、どこで見られるかが正確に
分かる。その時間に、その場所にいさえすれば、皆既日食は見られるのである。
前回の北海道日食から46年間、日本の陸地で皆既日食が見られることはなかった。
しかし!ついに!その時がやって来る。
天文学者の計算によれば、2009年7月22日、この日本の陸地で皆既日食が
見られるのである! これは、何が何でも見に行かねばならないではないか。
いざ行かん、2009722の皆既日食帯へ!
おまけ
この文を書くに当たって、四半世紀も昔の学生時代に書いたレポート(論文とは
いえないなあ、大目に見ても「レポート」だなあ・・・)を読み返してみた。
我ながらよくまとめてあると驚いたが、よく考えてみたらほとんどが参考文献の引き
写しだったからに違いない。どおりで文章が上手いわけだ。赤面の至り。
インターネットで調べると、ウィキペディアに、古代の日食について、かつて自分が
レポートに書いたこととずいぶん似たようなことが、しかも詳しく書かれていた。限られ
た文献をもとに考えるのだから同じようになるのは当然かも知れないが、どなたが書いた
物か、驚いてしまった。
地球の自転速度は変化しているので、科学の進んだ現代でも、計算で大昔の日食を正確
に再現することは難しいということも知った。先ほど書いた推古天皇時代の皆既日食帯が
当時の都を通ったか否か、議論があるようである。
また、天文学ではなく歴史学の分野で、このテーマで博士論文を書いた人も現れたと