2009722 トカラ列島 宝島
-トカラ列島で皆既日食がある-
大人になったら、皆既日食がある
子供の頃、何かの本で、やがて日本でも皆既日食が見られると書いてあるのを読んだ。
当時の記憶は定かではないが、その時自分は40代半ばであると計算した記憶がある。
(子供の頃から私は、計算に弱い文系人間だったんですな、皆既日食の時は51才でした。
ついでに言うと、日食は東京で見られると書いてあったように記憶しています。2035年
の皆既と混同して読んだのかもしれません、そそっかしい話です。)
で、この日食を絶対見たいと、こども心に思ったものであった。
その思いは、ずっと頭の片隅に残っていたのだが、いったいいつ皆既日食があるのか、
曖昧なままに数十年の時が流れた。
ある日、ふと思い立ってインターネットで検索をしてみると、それは2009年7月22日、
トカラ列島で見られると言うことが分かってきた。
小さな、小さな島々
「トカラ列島」。名前は知っていた。カッコいい響きで印象は強烈だ。しかし、それは
いったいどこにあるのか?
沖縄のかなた、宮古島の方か?
玄界灘の、韓国との境界のあたりのようにも思える。
いや、もしかして、アリューシャン列島の近くなのか?
はるか南の沖ノ鳥島の方かも知れない。
手元の地図帳で、それが鹿児島と奄美大島の間に点在する島々であると分かった。
しかし、地図帳に描かれたトカラの島々は小さすぎて、「点」でしかなかった。そこで
図書館に出かけ、一番大きな地図帳を眺めてみる。トカラ列島は幅5センチ、
長さ10センチほどの別枠になって描かれていた。この図で、島の名前と位置関係は
分かった。
それでも、島々は、いまだに「点」のままであった。豆粒はおろか、米粒ほどにも
描かれていないのである。よほど小さな島々なのか、はたまた、地図帳に大きく書くだけ
の需要がない島なのか?
後日談になるが、宝島へ行くことが決まったとき、2万5千分の1の地図を買い求めた。
地図を開いてみて、ウ〜ムと思う。宝島は、地図の一割ほどの面積の中に収まって
しまっていた。あとは全部海である。
5万分の1ではない、2万5千分の1の地図で、である。
国土地理院もさすがにもったいないと思ったのであろう、本来なら別図となるはずの、
隣にある小宝島をむりやり宝島の図の中に持ってきて、別枠を作って書き込んである。
それでもまだ海の面積が八割以上だ。本当に小さな、絶海の孤島なのであろう。
書店で旅行ガイドを捜してみた。鹿児島や屋久島や奄美大島の本はいくらもある。
しかし、その間にあるトカラ列島を紹介したガイドブックには、ついぞお目にかかること
ができなかった。
ただ、幸いなことに、今はインターネットで色々調べることができる。地図や航空写真
さえもネット上で見ることができる。いい時代になったものである。
トカラ列島 十島村
トカラ列島の島々は行政区域的には、鹿児島県 鹿児島郡 十島村(としまむら)という。
現在、人が住んでいるのは7島。北から順に口之島・中之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島
・小宝島・宝島である。このほかにいくつか無人島がある。(島の数え方は、小宝・宝両島を
一つにカウントすることもあったりで、微妙なものがあるようなので、この文章での数え方は
厳密ではありません。)
現在の人口は、7島合わせて600人余り。
北の5島は火山島で海から一気に高い火山がそそり立つ。南の2島は隆起サンゴの島で
ある。
かつては、さらに北側の三つの島も合わせて10の島で文字通り「十島村」であったの
だが、太平洋戦争敗戦の結果、南側の七島はアメリカに接収されてしまった。北側の3島
は仕方なく三島村となってそのまま今日にいたっている。南側の島々は1952年に日本に
返還されたとき、7島になってしまったが、戦前からの「十島村」という呼び名を称した
のだという。
そう言う意味では、時代の波に翻弄された島々なのである。
十島村は、日本で一番長い村であるという。その差し渡しは、南北に160qにわたる。
県庁所在地である鹿児島からは「波路はるかに300q」などと歌にもうたわれ、南端の
宝島までは、鹿児島から実に360qもあるという。
海の道 フェリー「としま」
この洋上に点在する島々へ渡る唯一の交通手段が、村営のフェリー「としま」である。
深夜に鹿児島港を出て、明け方に北端の口之島に着く。以後順次各島を回り、最後の
宝島へ着く頃のは午後になる。ここで停泊して鹿児島へ戻るパターンが週1回。
さらに奄美大島まで渡ってから折り返すパターンが週1回。合わせて週に2便がある。
というよりは、週に2便しか船は来ない。このたった一隻の船に、人の行き来はもちろん、
物流も、新聞も、郵便も、島の暮らしのすべてが託されているのである。
「としま」の接岸・荷役作業は、各島の青年団が行う。週二回しかこない船に、専属の
作業員は雇えないからである。島民みんなで、この大切な船を守り動かしているのだ。
ちなみに、青年団の定年は69才(!?)だという。
島では、各所に設置されたスピーカーで、「としま」の運行状況が、逐一放送される。
曰く、「フェリーとしまは、本日の鹿児島出航が決定いたしました。」曰く、「フェリー
青年団や島の人々に港に集合する時間を知らせるための放送らしい。
この定期船就航に尽力した原邦造という人は「汽船もまた道なり」と言ったという。
普段、道のありがたさに気づかずにその恩恵に浴している我々も、心すべき言葉だと思う。
万が一にもこの船が壊れたりすると島は孤立してしまうので、少しでも海が荒れると
「としま」は欠航になる。島の近くまで来ていても、波が高ければ接岸せずに帰ってしま
うこともあるらしい。2便も続けて欠航となると、島の生活が脅かされるという。宝島に
行ったとき、「船が欠航するとお醤油が無くなってしまって困るから、真っ先に買いに行
く」と言う話をしてくれた人がいた。(ちなみに、宝島には店が「ある!」のだ)
最高僻地5級地
どの島にもホテル・旅館・レストラン・食堂などはない。かろうじて民宿だけはある。
郵便局も3つの島にあるだけ、駐在所は1つの島にしかない。店など無い島も多い。
だから「としま」の売店でお菓子やアイスを買うのを楽しみにしている子供も多いという。
我らが聖地、あの山奥の秘境、八幡高原でさえ、日に何本かバスが通っていた。野菜は
売ってなかったが、店はいくつかあった。20人前後のキャンプの食料も買い出しできた
ではないか!新聞も、毎日バスで届けられていた。これに比しても、トカラ列島がいかに
辺境の地であるかが、おわかりいただけよう。「最高僻地5級地」という最高ランクの
僻地なのだそうだ。
辺境の僻地ゆえ、小学校ができたのは日本で一番最後、なんと「昭和」5年だった
そうだ。ちなみに学制発布は「明治」5年。実に半世紀以上が過ぎている。
辺境の地にはつきものの平家の落人伝説も、この島々では伝説ではなくてかなり
現実味を帯びている。ついでながら平家物語で、平家討伐のはかりごとをした俊ェ僧都の
流刑地、喜界島はもう少し南、奄美大島の近くにある。
そして、さらに驚くべきことが分かってきた。村役場が、なんと村の中にないというの
である。村役場は波路はるか300qも北方の鹿児島市にある。
村役場や、鹿児島市に用事ができた人が「としま」に乗って、はるばる鹿児島へで
かけるとする。鹿児島に着いたその日に島に帰る便はない。2〜3日待たないと「としま」
は出航しない。島外へ用事に行くのは数泊を要する大旅行なのである。離島の暮らしの
大変さは想像を絶するものなのであろう。
ちなみに各島に、村の正規職員は駐在していないのだそうだ。
そんなトカラ列島で、数年後に皆既日食が起こる。
フェリー「としま」に乗って、トカラ列島へ渡る自分を想像する。
行き先は当然、皆既継続時間最長の悪石島がいい。
きっと自分はリュックを背負い、テント持参で、美しい南の海や島を旅するのであろう.。
辺境の地、亜熱帯の夏、テント生活、望むところだ。皆既日食だ!夏合宿だ!
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