2009722 トカラ列島 宝島
 
                -我が家も激甚災害-
 
不吉の前兆@:寄る年波
 
 日食前年、2008年の夏、突然左膝が痛みだした。医者によると老人性(!)ヒザ関節症であるという。
激痛が走り、まともに歩けない。かばって歩くので右足までケイレンが来そうである。見てくれを考
えて、トレッキング用のステッキを買ったのだが、ツエにすがってやっと歩くその姿は哀れそのもの。
松葉杖にしたほうがまだマシだった。数日で小康を得たが、秋に息子の資源物回収で空き缶を踏みつ
ぶしていたら、またしても激痛が・・・。なんとか再び小康を得る。冬、スキーに出かけ、スキー靴
を履いて駐車場をほんの50メートルほど歩いたら(ゲレンデに着いてもいないのに!)また再発。
容易ならぬ事になってしまった。
 
 いずれも休日だったので、毎回異なる緊急医に駆け込んだのだが、医者によって言うことが皆違う。
「治る」という医者もいれば、「治らない。余生を膝痛と上手につきあえ」という医者もいる。サポ
ーターをしろという医者もいれば、してはいけないという医者もいる。レントゲンを見て、
「まだ
老人性というには早いだろう」と言いながら、その医者は私を「老人性膝関節症」と診断した。
訳が
分からない。
 ともあれ、まともに歩いたり走ったりが出来ないので、一気に体力が落ちてしまった。
 
 さらに、秋にはアバラ骨の痛みが、これに彩りを添えることになる。
 
不吉の前兆A:3月パニック
 
 2009年春、三人いる子供が大学・高校・小学校を一斉に卒業となる。とりわけ下の二人は人情の厚
い田舎の学校なので、卒業に向けてクラスやクラブや地域がらみの行事・お付き合いが、親子共々に
沢山ある。高三の子は受験。もし受かればアパート探しにも行かなければならない。
 
 三月、人事異動の発表がある。妻は転勤、自分は残留。妻の次の職場は100qの彼方である。
高速道路がつながっているが、私がそちらから通うとなれば、交通費の個人持ち出し分が月々10万
円を超えるという。高三の息子へ四月から仕送りすることが確定したので、経済的に見て、私が単身
赴任するしか道はない。住んでいる借家は数年前から明け渡しを求められていたので、この機にそこ
も引き払うことにする。
 
 こうして3月下旬には、長男は東京へ、妻は次男を伴って新任地へ、自分も別の家へと、我が家は
引っ越しのオンパレードとなった。唯一引っ越しをしないのは、学生時代のアパートから就職先に通
える大学4年の長女だけである。
 
 引っ越しの間を縫って子どもたち3人の卒業式があり、長男・次男が次の学校へ進む段取りもつけ
なければならない。
 
 仕事も2008年の秋口から2009年の春先にかけて、例年になく多忙を極めていた。3月下旬で、
引っ越し業者の都合のつく日は、自分がどうしても仕事を休めない日ばかりというありさま。
 
 この激動の3月をどうやって乗り切るのか?ある程度は前もって分かっていたことであるが計画性
と整理整頓能力が著しく欠けている私は、頭の中がパニック状態。時間だけがどんどん過ぎて行く。
 
 さらに、3月下旬の職場の送別会、皮肉なことに幹事長は、転勤できなかったこの私に決定した。
 
激甚災害来たる!
 
 西暦2009年3月23日。天気晴れ
 
 職場へ行くといつも車を止めるところが埋まっていたので、別の場所へ駐車する。
 車を降りたところにカギが落ちている。1ヶ月ほど前から行方不明だった我が家のオリジナルキー
であった。複製があるので生活に支障はなかったが、近々この家は引き払う。当然にオリジナルの鍵
を返さなければならないから弱っていたのだ。

 以前ここに駐車したときに落としたのであろう。以来1ヶ月、このけなげな鍵はずっとここで私を
待っていたのである。こいつぁ春から縁起がいいぜ!
 
 だが、我が国には「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざがある。
 
 その日の午後、職場の廊下で勢いよく足を滑らせ、私の体は宙を舞った。右手首が、タダでは
すまない形になっている。救急車がやって来た。
 ドクターに「ギブスにしますか?手術しますか?」と選択を迫られ、当然痛くない方を選ぶ。
 
 夕方、帰宅すると、長女の卒業式で東京に行っていた妻が先に帰っている。
「引っ越しは、どうするの!」妻の第一声であった。
 
 妻・次男と長男の荷物を出す日が二日後に迫っていた。この日も、指先から肘の上までを覆った
固いギブスの上に、引っ越し業者のロゴが入った段ボールを載せて運ぶ作業が深夜まで続く事になる。
 その後は、明日の送別会の、幹事長挨拶の原稿作り。左手一本でパソコンに向かい、明け方まで
かかる。
 
 この日、実はもう一つ、妻に告白しなければならないことがあった。私の単身生活用に申し込んで
あったワンルームマンション形職員住宅の抽選に、見事に外れたのである。

「もう、あんたって人は、どこまで運がないの!」

まったく、その通りでございます。

 
日食の話をしていたのでした
 
 自分にしてはいつになく早く、日食のことを調べ始めたのだが、「ああ、あと何年か先のことだ」
と安心してしまって、案の定、その後の詰めを怠っていた。

 やがて、前述のように仕事の多忙化と家庭に追われ、十島村の日食アンケートにも参加せず、どの
ような形で島へ渡る人間を決めるのかも知らないままに日が過ぎていった。

 アンケートにも参加しなかった人間が、たった1500人の中に入れるはずがないという思いも
あった。

 こうして日食を見に行くことは難しいだろうという思いが支配的になり、いつしかトカラへの旅は、
は私の念頭から消えていた。
 
 そこへやって来た、この「激甚災害」である。もはや、日食どころではない。
 
3月24日 送別会。
 ギブスがスーツのソデを通りそうもない。上着を肩にかけてヤーさんみたいな幹事長になりそうだ。
むりやりギブスをソデに通すが、こんどは片手でネクタイを結ぶのに一時間を要する。
 幹事長は1次会でさっさとおいとまし、転勤もないのに夜更けまでお引っ越しの準備。
 
3月25日 引っ越し。仕事休めず。
 業者にお任せで、ともあれ引っ越しの荷物が搬出された。夕方帰宅すると、私の単身生活用に、
布団とほんのわずかの荷物だけが残されていた。
 
 ふと見ると、新聞が床にある。6年間暮らしたこの家に配達された、最後の新聞であった。
 記事の下の広告に皆既日食ツアーの文字が見える。上海へ皆既日食を見に行くツアーの募集で
あった。ウ〜ム、と思っていると妻がこれに申し込めと言う。

「子供の頃からの夢だったんでしょ。後であれこれ言わないように必ず申込みなさい!」

 妻が日食に理解を示してくれて、うれしかった。私は、その新聞を、忘れないように押し入れの
荷物の上に置いた。
 
 妻は転出先での整理にかかり切りになる。残った私はこの家を返せるように掃除し、さらに、自分
の単身生活のための引っ越しをしなければならない。
 この状況で、右腕の使用不能は悲惨だ。知人に応援を頼まざるを得ない。何人もの人から力を貸し
ていただいた。食器も鍋・釜も残っていない。ガスだけは出るのでカップラーメンで数日を過ごす
ことになる。
 
左手で、縄をあざなう翁に、蜂が来る
 
 幸い、住まいは所帯用の職員住宅に空きが出たので、それを借りられることになった。ボロくて
寒いが、広い。この広さのおかげで日食への準備がゆったり出来たのだが、それはまた後の話。
 
 右腕はまったく使えないので、何をするのも制約を受ける。もちろん運転もダメ。入社式を2日後
に控えた娘を東京から呼びつけて運転手をさせ、なんとか引っ越しの後始末を済ませた。
 
 すみかは出来たが、冷蔵庫も洗濯機もテレビもない。遠い昔、大学に受かって初めて下宿したとき
と同じ状態である。ガスが使えること、部屋数が多いこと、風呂がついていることだけは当時よりRich
であった。
 電気釜と、鍋兼用のフライパンだけ新調して、ともかく何十年ぶりかで一人暮らしが始まった。
 
 何をするのも左手一本。食事もシャンプーも洗濯も料理も、すべて片手。大きい方の後始末を、
利き腕でない手でするのは、実に惨めなものである。
 
 私は、仕事上、字をたくさん書かなければならない。ワープロは左手一本でも何とかなるが、
手書きの文字は大変だ。とても時間がかかる。しかし、なにより悲しいことは、左手が、右手と遜色
のない字を書くことであった。

 「明日、お前は、人が読めるような字を書いて来るんだぞ!」高校入試の前日、ホームルームで、
担任の先生から言われた言葉である。

 左手でも、その「黄金の右腕」と同じ程度の文字は書けることが証明された。情けない話である。
 
 さて、禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬、ピンチの後にチャンス有り、などと言う。

 そう!世の中、悪いことばかりは続かないのだ!

 四月は歓迎会など宴会の多い月である。宴席で右手が使えないで困っていると、うら若き女性職員
が鍋物を私の器に取り分けてくれた。さらに、車が運転できないから、近所に住む、これまたうら若
き女性職員が私を毎日送迎してくれることになった。
 
 いや〜、世の中、捨てる神あれば拾う神有りだ。役得、役得。

 しかし、浮かれていると、先輩方から

 「手の骨を折ったくらいでチヤホヤされとっちゃ、いかんのだにィ〜」  とか、
 「女の子に送り迎えしてもらえるなら、オレだって腕ぐらい、自分で折ってみせるわ!」

などとキツイお言葉が飛んでくる。 

 四月中旬、順調ならもう1〜2週間でギブスが外れるはずだ。
 レントゲン写真に赤鉛筆で線を引き、
分度器を当てながらドクターが言う。

 「ギブスの中で手首がうごいてしまったようで、角度が良くないですねェ〜。ちょっと、
他の医師と
相談してみます。」
 
 結果は、手術であった。くっつきかけた骨をもう一度人工的に骨折させてつけ直すのだそうだ。
片腕生活は、1ヶ月延長となる。

 やっぱり禍福は、縄をあざなっている。

 麻酔から覚めると、ギブスはなくなり、添え木になっている。指とヒジが自由になった。
 だが包帯
を外してまたびっくり。手首からクギが2本突き出している。まるでフランケンシュタインだ。

 手術
の立ち会いから帰った妻は、三月以来の疲れがどっと出て椎間板ヘルニアになった。
 
 もはや、事態は「あざなえる縄」でも、「塞翁が馬」でもなく、「泣きっ面に蜂」であった。

 
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