2009722 トカラ列島 宝島
- 準備開始 -
復活の日
5月23日、病院へ行く。外来の診察室でドクターが、密封された滅菌済みの袋を取り出した。
何が出てくるかと見ていると、黒光りするペンチである。明らかに一昔前の工作用のペンチだ。どう見てもこれは滅菌
済みの袋に入っているような代物ではないし、絶対に医療器具であるはずはない。
「すこし、びっくりしますよ」
ドクターは私の手首から突き出しているクギの頭をペンチでつまむと、いきなりそれを引き抜いた。
「グェッ!」と思うまもなく、長さ10センチもあるクギが2本、私の手首から抜けてくる。
こんな普通の外来診察室で、麻酔も何もなくペンチでひっこ抜いてしまうとは・・・。
「先端の小骨は、スミマセン、直しようがないので折れたままです。でも、いい角度についていますよ。」
そうは言っても、はっきり言って、左右の手首の角度が違うんだけど・・・。
2ヶ月にわたって固定されてきた右腕はすっかり細くなり、まったく握力が出ない。手首は、痛むし、ほとんど動かない。
それでもともかく、一応手首の制約はなくなり、めでたく自動車の運転許可も出た。これで、行動範囲がぐっと広がる。
さあ、日食の準備だ!
旅の日程を考えなければならない。真夏の島でのキャンプ生活のことも考えなければならない。様々な機械や道具も
準備しなければならない。万が一日程が遅れて、予定通り帰れなくなったとき、職場へ連絡する通信手段も確保する
必要がある。
すなわちこれらはそれぞれ、運行班・生活班・技術班・通信班という役割分担になる。ついでに皆既日食中は、いわば
私は戦闘班員として世紀の天体ショーに立ち向かうことになる。
かくて、アニメのオールドファンにはおなじみの班分けスタイルで、トカラ列島皆既日食に挑む壮大な一大スペクタクル
(というよりは一大妄想)が幕を開けた。頭の中を、川島和子の「無限に広がる大宇宙」という、あの有名なスキャットが
渦巻き始める。
気分は異様に高揚している。様々なことが頭をよぎり整理がつかない。しかしともかく、皆既日食までは、あと2ヶ月
しかないのである。
一日24時間、皆既日食
申し込み当初は妄想ばかり膨らんでいたが、混沌の中からイメージが固まってくるにつれ、様々な物を調達したり、作っ
たりする必要が湧いてきた。
午前中は、買い物タイムだ。私の勤務シフトが昼〜深夜だからである。
店を開けたばかりのカメラ店・ホームセンター・100円ショップ・スポーツ用品店・書店・衣料品店・スーパーマーケッ
トなどに毎日せっせと出向く。買う物がなくても、「なにか利用できる物はないか」とどこかの店を物色するのが日課とな
る。とりわけホームセンターや100円ショップは、イマジネーションをかき立てられる品物の宝庫だ。足繁く通って、必要
な物・使えそうな物を手当たり次第に買いあさる。しまいには、およそ使いそうにない物まで「まあ、とりあえず」と、
貴重なおアシを浪費するようになる。
ツアー代金が高いのでその他の予算はほどほどに、とは思うのだが、どんなに節約しても、支出は青天井、とどまる
ところを知らない。
午後は、昼を食べると出勤だ。
いやしくも仕事中は、気持ちを切換え、心を引き締め、雑念を廃して、旅行や撮影の計画作りに没頭する。これを世間は
「職務怠慢」・「給料泥棒」などと言う。ミヤビを解さぬ下賤の輩どもめらが!
夜は、望遠鏡を組み立てての撮影シミュレーションや、工作の時間である。
三部屋ある職員住宅のうち、一部屋が工房兼望遠鏡シミュレーション室に、一部屋は倉庫になる。もう一部屋は昔懐かし
い万年床の寝室だ。ボロいが広い住宅のおかげで、生活空間をすべて、日食中心に回すことが出来たのはありがたかった。
単身生活でなかったら、こうはいかない。天が与え給うた時間である。最初は遠慮がちに、やがては堂々と、真夜中に電気
ドリルがうなりを立てて、近所迷惑ここに極まれる。
夏至が近い。妖しく日食準備に耽る夜は、すぐに東の空が白み始める。
あらまほしきは先達なり
1963年の北海道皆既日食以前は、アマチュアが皆既日食を撮影することはほとんどなかったようである。したがって、
写真を撮ろうにも、参考になる露出データがほとんど無くて苦労した様子がバイブル1963721に描かれている。コロナは
ほぼ満月の明るさに等しいということが唯一の手がかりであったという。
その後、アマチュアが皆既日食に関わる機会も増え、写真もたくさん撮られるようになった。今回の日食に際しては
そうした先達が長年試行錯誤して蓄積してくれたデータが本に紹介されていて、大いに参考になった。
なにしろ、見たこともない特殊な「光」を写すのである。カメラの露出計などはまったく当てにならない。そして、
やり直しはきかないのである。ここは、先達のデータに全面的に頼るしかない。
また本やネットに、海外遠征に持って行くための荷造り方法や、観測時の様々なノウハウ・注意事項も紹介されている。
知ってしまえば何でもないようなことでも、指摘されなければ気がつかない事も多かった。
兼好法師が言うとおり、「何事も、あらまほしきは先達なり」である。先駆者のあることは本当にありがたいことである。
先達の、幾多の失敗体験の上に、人類の今日は築かれてきたのだ!
さて、露出データは先達を信じるとしても、やはりテスト撮影はしておきたい。そこで、バイブル「1963721」にあるよう
に、満月をコロナに見立てて写してみることにした。しかし、お目にかかったこともない大先輩とはいえ、やはりそこは
同じサークルの先輩後輩の間柄、日食を目前にドロナワ式に準備に追われるのも同じなら、満月を写そうにも梅雨空に阻ま
れるところもまったく一緒。うれしいような、情けないような、複雑な気持ちであった。
ああ、まことに何事も、あらまほしきは先達なり!
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