2009722 トカラ列島 宝島
- 鹿児島A-
種子島 金環日食
7月19日、日曜日。
朝、ホテルの部屋のテレビをつけると、日食がらみの番組をやっていた。鹿児島のローカル局だろうか。番組は、ざっと
こんな内容だった。
かつて種子島で金環日食があったときのこと。島の小学生たちは校庭でこの日食を観測し、「次の日食の時にも、みんな
でここに集まって観測しよう」と約束した。そしていよいよ、その「次の日食」すなわち今回の皆既日食があと数日後に迫ってきた。
当時小学生だった子供たちは、約束を果たすべく、今、準備中である。担任の先生も、来てくださる予定だという。
テレビに映された当時の校舎や生徒たちの写真はセピア色に変わっていて粒子も粗く、相当昔のものに感じられた。当時
を語る元小学生たちも、すでに高齢者の風格が漂っている。彼らの担任の先生がまだご存命で、お元気に同級会に出てこら
れる予定と言うのは、失礼ながらちょっと驚きであったが、きっとまだお若い先生だったのだろう。先生になりたての若者が、
島嶼部の学校に派遣されるというのは、よく聞く話である。
いい番組を見ることができた。皆既日食のお膝元、鹿児島ならではの話題だ。ここに来なければ聞けなかった話であろう。
ちょっと得をした気分である。
皆さん、どうぞ、良い同級会を開いてください。日食が結ぶ同級生の縁、すばらしい話ではないですか。きっと金環日食
以上のすばらしい日食が見られますよ。(すばらしい日食が、「見られますよ」・・・か...。見・ら・れ・ま・○・○・・・・)
しかし、種子島の金環日食とは、いったい何年前のことなのだろう?今の番組を見る限り、ずいぶん昔の事のように
思われるが・・・。
種子島金環食エピソード.1
この金環日食は、1958年4月19日に起こったもので、 奄美大島、トカラ列島、屋久島、種子島、八丈島などで
見られたという。金環食帯は、今回、2009年7月22日の皆既帯とよく似たコースを通ったようで、この時も悪石島
が中心線に近く、金環状態が7分以上継続したという。トカラ列島は、結構日食に縁のある場所だったのだ。
ちなみにこの日の宝島は曇天で日食が見えなかったという記事を、2009年の日食ガイドブックを丹念に
読み返していて発見した。
ああ、なんという悲劇の島!このときはまだ、そんなこととはつゆ知らぬ私であった。
|
種子島金環食エピソード.2
テレビに映った種子島の小学校や生徒たちの写真はセピア色に変わっていて粒子も粗く、相当昔のものに思われた。
見た感じでは昭和初期ぐらいのものかと思ってしまった。1958年(昭和33年)であれば、もう少し写真の状態が
良くてもよさそうなものなのだが・・・。ちなみに1958年は私が生まれた年で、金環日食の日、私はまだ生後
1ヶ月と少しの赤ん坊であったことになる。
今回テレビに出演した当時の「小学生」はずいぶん高齢者に見えたが、この年に生まれた赤ん坊も、小学生も、
半世紀を経た今では年の差などほとんどないようなものではないか!私もテレビに出たら、あのぐらいに映って
見えるのだろうか。次男の学校では「おじいさん」呼ばわりされたことだし・・・。年は取りたくないものである。
|
種子島金環食エピソード.3
バイブル『1963721』に、出発前の壮行会の席でこの種子島金環食が話題に上った、という一節が出てくる。
実は、この金環日食を観測するために、我らが大学のクラブは「種子島」へ遠征隊を派遣していたのである。
種子島の「小学校の校庭」で、京大隊とともに観測をしたということであった。宝島から帰って、ずっと後に
なって教えていただいた情報であるが、偶然にも鹿児島で見たテレビは、大変に縁の深いものであったわけ
である。このテレビで紹介されたのは、もしかしてその小学校だったのだろか。(ただし、種子島には小学校が
30近くあるらしいから、確実とはいえない。中学はグッと少なく3校だけである。)
『1963721』の著者の大先輩は、この年に大学生となったが、4月に入部した時、すでに種子島遠征隊は出発
した後であったという。
|
鶴 丸 城
ホテルで無料のモーニングサービスをいただき(軽食とはいえ、この宿泊料で朝飯が付くのはありがたい!)、大きな荷物
はフロントに預けて市内へ出る。
まずすべきことは、カメラ屋へ行って、今まで撮ったデジカメのデータをCD-Rに焼いてもらい、日食撮影用にFCカード
の容量を回復することである。電車通りに出たところにすぐ、カメラ屋があった。普通はフォトCD作成は引き受けても、
データをCD-Rに焼くだけというサービスはしないと言うが、無理を言ってお願いすると、昼過ぎまでにやっておいて
くれるという。ありがたい。
別のカードをデジカメに挿入し、市内巡りに出る。今日一日で、またかなりのデータ容量を食うことになるだろう。
デジタルは温存して、フィルムカメラを使えば良さそうなものだが、フィルムカメラ2台はすでに島送りの宅急便の中なの
で、どうしようもない。
今日は市内や桜島を巡って、夕方までにここに戻り、カメラ屋に寄ってCDをもらい、ホテルで預けの荷物を受け取って、
ツアーの集合場所へ4時までに着けばよい。ツアーの集合場所、ドルフィンポートも、ここから近くである。今日は鹿児島
の祇園祭りで、メインストリートは午後から交通規制となるというが、通りと平行して、海側に大きな道が通っているし、
時間に余裕を見ておけば大丈夫だろう。
鹿児島の空は青く、高く、太陽が朝から強烈に照りつけている。梅雨はおそらくもう、明けたのだろう。暑い。さあ、今日は、
どこへ行こうか。結局、詳細な計画を立てられなかったが、とりあえず昨夜も通ったルートで城山方面に向かうことにする。
市内を歩いてみると、昨日のデパートや市役所や公民館の他にも、立派な石造りの建物がいくつもある。鹿児島は本当に
すごいところだ。
西郷さんの銅像の前を過ぎてさらに進むと、お堀が見えてきた。薩摩七十七万石、島津氏の城跡である。
堀の水面は蓮の葉で埋め尽くされ、その奥に見事な石垣が積まれている。案内標識に鶴丸城址とある。鹿児島城は、
別名を鶴丸城と言うのだと、初めて知った。「鶴丸」、私にとっては懐かしい響きである。私の在学した大学には、
鹿児島県人が大勢いて、友人・知人も多かったが、その大半は鶴丸高校の出身であった。彼らの高校は、お城の
名前を戴いていたのだと、今になって気がついたわけである。クラブのI先輩、初めての下宿生活を共にしたT君、
学部が同じだったYさん・Tさん、どこまでも純粋だったO君、・・・懐かしい顔が、名前が、次々に浮かんでくる。
彼ら、彼女らは、きっとあのデパートに出入りしたに違いない。天文館あたりも歩き回ったのだろう。この城跡にある
図書館に来ていたかもしれない。鶴丸城の名は私に、鹿児島の街を歩く若き日の友の姿を彷彿とさせてくれた。今はそれ
ぞれ、遠く離れてしまった。最後に会ったのは誰だったろう?最近は年賀状も交わさなくなってしまった人も多いが、皆、
元気でいるだろうか。学生時代はついこの間だったような気がするが、実にあれから幾星霜、会えば互いの変わり果てた
姿に、時の流れを実感するに違いない。
晋どん、もう、ここらでよか
城跡の角を曲がり込むと道は登りとなり、薩摩義士碑がある。江戸時代、幕府は薩摩藩の財力をそぐ目的も兼ねて、
美濃の国の治水工事を命じた。薩摩藩では幕府と一戦交えるかという議論まで出たと言うが、最終的には幕命を拒むことは
出来ず、莫大な費用と人力を出さざるを得なくなった。幕府から派遣された現場監督の役人たちは横暴・理不尽を極めたが、
薩摩藩士たちは異を唱えることも許されず、黙々と堪え忍ぶしかなかった。そのため、中には抗議の切腹に及んだ者もいた
という。苦難の末に工事は完成し、薩摩藩は危機を回避できたが、ここで憤死した藩士たちや、工事の犠牲者を祀る慰霊碑
が、この薩摩義士碑であるという。
このあたりは、城山のふもとで、西南戦争最後の激戦地でもある。西南戦争と言えば、戦いの天王山といわれた
田原坂(熊本市)あたりでは今でも、官軍と薩軍が撃ち合った弾丸が空中でぶつかって、一つにくっついたものがしばしば見つかる
という。私は野球の練習で、ノッカーが打った球と野手が返球した球と、二つのボールが空中で正面衝突するのを一度だけ
見たことがあるが、鉄砲の弾でそんなことが起こるとは、恐ろしい話である。銃撃戦の激しさは想像を絶するものだったの
だろう。
この近くにも、西南戦争の激しい弾痕が残る石垣(私学校跡)があると言う。私学校は薩摩士族が決起し、西南戦争の
発端となった場所であるが、このときすでに薩軍は追い詰められ、逼迫していたはずなので、石垣に残っているのは、
ほとんど官軍が撃った弾なのだろう。その石垣が近くにあるはずなのだが、どこなのか、見つけられない。しかたなく、
さらに坂を登る。
坂が緩やかになったところに、鹿児島の名所を巡るシティビューのバス停。しかし、バスは30分おきで、しばらくやって
こないので、そのまま歩く事にする。日差しが強く、汗がしたたり落ちてくる。道の下は、切り通しになっていて、その
底を線路が通っている。鹿児島本線である。
線路と立体交差している道を、案内標識に見えた西郷南洲顕彰館・南洲神社・南洲公園を目指して進む。(南洲は、西郷
さんの雅号)ここには西郷さんが最後に身につけていた血染めの下着があるとか言う話だが、かなりの距離を歩いた上に
道が複雑になってきた。不安に駆られ、引き返そうとして結局道に迷う。古い家が建ち並ぶ迷路のような登り坂をさまよっ
ていると、「椋鳩十旧宅案内」という立て札が目に付いた。椋鳩十は、私の大好きな児童文学者だ。そうだ、彼は、さっき
通ってきた城跡にある鹿児島図書館の館長だったのだ。これは!と思って訪ねようとするが、またしても道が分からない。
オレはこんなに方向音痴だったのだろうか?私学校跡・南洲公園・椋鳩十の家、連続して三回も、道を失うとは・・・。
なげきつつ坂を下ると鹿児島本線が見え、なんとかさっきの道のそばまで戻ることができた。
線路の西側に、西郷隆盛終焉の地がある。石垣の上の木が茂った小高い場所で、神社のような風格が漂っている。石段を
上がり、「南洲翁終焉之地」という大きな石塔と対面する。
官軍に追い詰められ、最後の突撃を敢行した西郷隆盛は腰と足に銃弾を受け、ついに覚悟を決める。そして、付き従って
きた別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と言って、この地で自刃したという。
明治十年九月二十四日のことであった。
「もう、ここらでよか・・・。」未練も無念も飲み込んで、こんな達観した言葉を、末期にオレは吐けるだろうか?
西南戦争の終結によって士族の乱は終焉し、日本は封建社会を脱皮して近代化を加速することになる。江戸幕府を倒し
近代への道を開いた西郷は、封建遺風の幕引きと日本の近代化の進展を、自らの死を持って決定づけたと言えるのかも
しれない、などとしばし歴史に思いをはせ、感慨にふける。ちょっと司馬遼太郎の気分だ。
折しも火星が地球に大接近、赤く不気味に光る星を人々は西郷星と呼んだという。軍人西郷と軍神Marsの習合。
縁(えにし)である。
城 山
谷の底を走る線路を左下に見ながら、瀟洒なマンションが立ち並ぶ道を進む。やがて鹿児島本線はトンネルで城山の下に
潜り込んでゆくが、その入り口には「敬天愛人」の文字が、あたかも額に飾られた書のように刻まれている。西郷さんの
座右の銘だ。鹿児島は、どこまでも西郷さんの街なのである。
ここまで来たら西郷さんととことんつきあおうと、城山に向かう。「城山」と呼ばれる山は全国にたくさんあるが、これ
をどう読むか、学生時代初めての下宿で隣人だった前述のT君と議論になったことがある。彼は薩摩隼人だから「しろやま」
説を主張し、私は「じょうやま」説であったが、全国的には「しろやま」が圧倒的多数派であるようだ。私の県には、いくつも
「城山」があるが、私の知る限り全部「じょうやま」と読むぞ!と負け犬の遠吠え・・・。
ともあれ、城山は鹿児島の観光名所、太い舗装道路が山頂へと続いている。道の脇に建ち並んでいた住宅やマンションは、
いつしか森に変わり、急に山の中らしくなってきた。草いきれとアスファルトの照り返し、ああ、夏だなあ、と思う。
爆弾を抱えたヒザが心配だが、30分おきのバスは、自分が迷子になっているうちにもう行ってしまったのだろうか、当分
来そうもないので徒歩で山頂方面へ向かう。かなり登って(と自分では思うのだが、実はたいした距離ではないらしい)
たどり着いたのは、西郷さんが最期の日の朝まで立てこもっていたという西郷洞窟である。
洞窟と言っても、崖を少し削って、中で人が2〜3人、雨露をしのげるようにした程度の奥行きである。同じような洞窟
が二つ並んでいて、なんだか、奈良の大仏の鼻の穴を連想してしまったが(大仏に鼻の穴は開いていただろうか?)ここで
西郷隆盛は最後の数日を過ごしたのである。この窪みの中央に西郷さんがドッカと座っていたのか思うと、感慨ひとしおな
ものがある。ふと、洞窟の壁に向かって座禅を組む達磨大師の図が思い起こされた。達磨大師は、今ではひょうきんな
ダルマさんの置物にされてしまっているが、元来は厳しい座禅の修行を積んだ、眼光鋭い大きな目玉と濃い眉や髭が
印象的な高僧だ。西郷さんの大きな目は、達磨大師の印象に通ずる物があると思う。
最期の突撃を決意した薩軍の総大将 西郷隆盛は、あの日、この洞窟を出て、先ほどの終焉の地まで、今自分が上ってきた
道を逆に下りていったのである。
洞窟の隣にはバス停があるが、あいかわらずバスとはタイミングが合わない。ここまで来たら、ぜひ山頂の展望台へ行っ
ておこうと、再び登り出す。おそらく西郷さんも、山頂から戦況を見わたしていたに違いない、とここまで考えて気がついた。
最初に城山の山頂に登り、それから西郷洞窟、終焉の地、南洲公園、と巡ると西郷さんの最期を時系列に沿って追体験
できるではないか!自分は逆に回っている。これでは、西郷さんの追体験にならない。逆体験だ。事前によく調べてこない
からこういうことになる、間の抜けた話だ。第一、歩くなら下りの方がよほど楽ではないか!
そう気がついたあたりから登りもいよいよきつく、汗もしたたり落ちて、この先の時間も体力も不安になる。次のバス停
は山頂の展望台だろうから、もはや自力で登りきるしか仕方がない。横を、クーラーの効いたタクシーに乗って通り過ぎて
ゆくブルジョワどもが恨めしい。
と、そこへ、坂を下って来る空のタクシー。無意識に手が上がる。ドアが開き、中からエアコンでよく冷やされた空気が
流れ出る。ああ、この幸せ!金には換えられないものだ、と乗り込んで、窓に張られた鹿児島のタクシーの初乗り料金を
見ると、私の地元よりずいぶん安いのでうれしくなる。
行き先を告げ、「鶴丸高校は、鶴丸城址の中にあるんですか?」「そこにはありません。」とだけ会話をしたら、もう山頂
の駐車場だった。さらに、直後に、シティービューのバスが到着する。ああ、これぞ貧乏人のゼニ失い!ずいぶん割高な、
「安い」初乗り料金を払うことになってしまった。
駐車場のまわりには土産物屋が建ち並んでいる。売っているのは、すべて西郷さんがらみの品々である。時として、桜島
がこれに加わるが、西郷隆盛と並ぶ明治維新の立役者で、これまた薩摩出身の大久保利通の土産はついぞ見かけない。
大久保さんは西郷さんと同じ町内の出身(ほとんどお隣さんだというではないか!)だというのに、どうしてこんなに待遇に
差があるのだろうか?西郷人気だけが絶大である。鹿児島土産の極めつきは、そこの、屋台みたいな店に飾ってある、
桜島とそれを眺める西郷さんを描いた手ぬぐいではなかろうか、などと思えてくる。
駐車場を過ぎ、年輪を重ねた木々が生い茂る森の中の石畳を登ってゆくと、ぱっと展望が開け、白いビルが林立する市街
地と、その向こうの湾からそびえ立つ桜島が目に飛び込んできた。絶景かな!絶景かな!ここが鹿児島一の名所であること
が納得される。展望台はかなり大きな広場だが、そこに生えている大木が屋根のように枝を広げ、広場全体に木陰を作って
いる。崖際の石積みと、その両側の太い木と、ひさしのように張り出した枝葉とが巨大な額縁となって、その中にこの絶景
を収めている。額の中の桜島は、昨日同様に雲を戴いて、山頂を見ることは出来なかった。
しかし、暑い。この炎天下に、この絶景と木陰は一服の清涼剤だが、広場には売店があり、ソフトクリームが飛ぶように
売れていて、花より団子、清涼剤としてはこちらの方がより効果的らしい。
私は暑さ対策用品を身につけている。首にはエリマキ状に、おでこにはハチマキ風になった、水を含ませた薄いスポンジ
で、気化熱を奪ってクールダウンすると言う、エコが売り物の製品だ。青い色をしていて、その名をエコクールなどと言う。
売店の横の水道で、気温と体温で暖まったこのスポンジを絞り直す。さすがはエコクール、ソフトクリームを買うよりエコ
である。(意味が違うか?)爽やかになって景色に見とれていると、観光客から写真を撮ってくれと頼まれる。お安いご用と
応じたついでに、「私のも撮っていただけますか?」と口をついて出る。最近では、見苦しくなった己が姿を写真に納めよ
うなどと思うことはついぞないのに、シャッターを人様にまでお願いするとは、これが旅の心理という物であろうか。
「これでいいですか?」と返してもらったデジカメのモニターを見て、愕然とする。頭に巻いた青いエコクール、自分
では青いバンダナをハチマキ状に巻いているカッコ良さをイメージしていたのだが、とんでもない。オデコに青い膏薬を
貼ったお化けみたいで、見苦しい顔が、いっそう醜悪になっている!ホテルの部屋から、ずっとこの顔で歩いてきたのかと
思うと穴があったら入りたい気分である。エコクールは、なかなかのスグレものであったが、以後エコクールおでこ版は、
人前では使用厳禁とする。私の写真を撮ってくれた人は、なにを思いながらシャッターを押しただろうか?
あ〜あ、やだやだ。旅の恥は、かき捨てだ。
屈辱に震えながら、展望台を後にし、駐車場に戻ると、バス停には行列が出来ていた。やってきたシティービューのバス
は昔の市電風のデザインだ。大勢下りて、同じくらい大勢乗り込んだ。このバス、結構盛っている。後部座席はシートが
取り払われ、真ん中にテーブル状になった円柱があり、そこにぐるりと円形に、大きな手すりが付いている。それに掴まっ
て立った状態で城山の曲がりくねった道を下ると、遠心力で振り回される。なんだか、遊園地のアトラクションに乗った
気分だ。これは観光客向けのサービスなのだろうか?
バスは今しがた私が登ってきた道を下り、市街地に入って、さっきたどり着けなかった南洲公園の脇を過ぎる。道の脇に
「降灰置き場」と書かれた札がある。ゴミ出しと同じように、ここでは火山灰を袋に入れて出すのだ。鹿児島ならではだ。
先述のT君が、桜島からの火山灰について、いろいろ話してくれたことがあったが、夏の暑い盛りに降灰があったら、さぞ
かし大変だろうと思ったものだ。T君の家から送られてきたミカンに、火山灰の痕跡が点々と付いていたのも印象深かった。
今日も暑いが、幸い火山灰が降ってくるようすはなさそうだ。
仙巌園というバス停で、大勢乗り降りする。その先の、三叉路の向こうに磯が広がっていた。
仙 巌 園
仙巌園とは何なのか、全く予備知識がなかった上に、時間の都合もあり、この日私は仙巌園には立ち寄らなかった
のだが、宝島からの帰り、今回の旅で知り合ったNさんと言う方が、ここは見所だとおっしゃるので、ご一緒させていた
だいた。
時系列から行けば、数日後のことになるのだが、今ちょうど、鹿児島の観光案内みたいなことを書いているので、
ついでに、ここで紹介しておこうと思う。
仙巌園は、別名を磯庭園とも呼ばれ、薩摩藩主 島津氏の別荘である。前に広がる桜島や錦江湾、後ろに聳える
急峻な山をもその風景に取り込んだ広大な日本庭園で、薩摩藩七十七万石,、大々名の面目躍如たる大別荘である。
国の名勝にも指定されているそうな。
入場券を買って門(ただし、観光客用の門であって、正門ではない)を入ると、まず目に飛び込んで来たのは巨大な
大砲である。太くて大きな木枠に乗せられ、巨大な車輪が二つ付いている。砲身が長くて、近代的な印象を受ける。
薩英戦争のとき、使用された大砲(ただし、レプリカ)だと言う。昔、伊豆だったかで見た幕末の臼砲、その名の通り
臼みたいな形をした砲身のごく短い大砲は、いかにも旧式で、とても遠くまでは弾が飛びそうもなかったが、こいつ
ならかなり射程距離は長そうだ。口径はどれほどあるのか分からないが、そうとう大きな物だ。その後ろの、台形に
築かれた石の建造物は、この大砲を鋳造した反射炉の跡だという。
庭園のまわりは城壁で囲われ、門や倉とおぼしき建物はさすがに大きい。しかし、園内の建物はほとんど平屋建て
で、おそらく桜島や錦江湾の風景を邪魔しないように設計されているのだろう。いや、これだけ敷地が広いから、2階
建てにして土地利用率を上げる必要などないのだ、などと考えるのは、しがない庶民の業である。
砂利を敷き詰めた園内には、あちらにこちらにと木が植えられているが、密生させてはおらず、木の一本一本を
楽しもうという配置になっている。東屋や石の灯籠なども設けられているが、やはり土地に余裕を持って作られて
いる。
砂利を踏んで進むと磯御殿、この別荘の中心的な建物である。張り出した大きな庇が作る日陰の中を、赤い毛氈
を敷いた板敷きの廊下が、部屋を取り巻いてつけられている。これは、廊下というより、どちらかというと縁側に近い
物で、壁も何もない開放的な造りになっていて、大きな庇の日陰と相まってとても涼しそうだ。部屋と廊下の境は、
全面障子でやはり開放的だ。ここが、殿様が普段おいでになる建物なのであろう。
庭園を奥まで進むと、それまで海岸線に平行していたルートが山向に変わり、急にあたりが鬱蒼として深山の
雰囲気になってくる。庭園の裏手奥は、急峻な山と言うか、絶壁がそびえ立ち、断崖に生えた木々の緑の中に
白い露岩が散見され、滝もあるらしく、まるで水墨画の世界だ。
断崖の上の方の、幅数メートル、高さは数十メートルはあろうかという細長い岩に「千尋巌」という巨大な文字が
彫られている。あんな所にどうやってあんな大きな字を彫りつけたのであろうか?やはり、鹿児島恐るべしである。
「バクチの木」(別名「裸の木」)なんていう名の木が植えてある。この木は、樹皮がみんなはがれてしまうの
だそうで、そのようすが、博打ですってんてんになって、身ぐるみはがれた人のイメージにつながって付いた
名らしいが、今日は、高い日食ツアーに参加して、見事にすってんてんになった我々をあざ笑っているみたいで
ある。
仙巌園の隣には、尚古集成館がある。これもまた、見事な石造りの建物で、アーチ状に組み上げた柱に支え
られたエントランスや、上部がやや丸みを帯びた窓が石積みの壁に幾何学模様のように連なって造られている
のが印象深い。鹿児島は石造り建築の宝庫だ。
ここは、薩摩藩における殖産興業・富国強兵を目的として幕末に造られた工場で、当時は集成館と呼ばれていた。
時の藩主、島津斉彬の先進性を示しているともいえよう。今日では、その跡が博物館になっていて、かつてここで
使われていた機械類や、島津氏ゆかりの品々が展示されている。島津氏というコンセプトでまとまっているのだろう
が、機械とお侍の歴史的資料が一つ場所でというのは、何か不思議な感じを受ける。しかしここの見物は、なんと
言っても建物そのものなのだと思う。
尚古集成館の脇には薩摩切子の工房と展示販売所がある。薩摩切子とは、切子ガラスのことで、透明なガラスの
上に色つきガラスを重ねて器を作り、色つきガラスの部分を削って切り込みを入れ、下の透明部分を微妙に見せる
ことで美しさを出す鹿児島の伝統工芸品である。工房も、展示用も、見るだけはタダだと言うことなので見学する。
(タダだから見るとは、情けない話だ。)
職人さんが、グラインダーを使ってガラスにV字の溝を彫り込んで切れ込みを造っていく。なるほどこれは手間暇か
かる工芸品だ。技術もそうとうな熟練を要するだろう。出来上がった作品を展示販売しているが、さすがに手がかかっ
ているだけあって、お値段も相当な物である。美しくて、お土産にすてきだとは思うが、「バクチの木」状態の私には、
とても手が出ない。それどころか、展示されている作品をうっかり落としでもしたらどうしよう、などと不安になる。
なんだか、高級な宝石店の中にいるような(入ったことないけど)緊張感だ。
仙巌園も、尚古集成館も、薩摩切子の工房も、みな島津氏にゆかりで、○に十字の島津家の家紋があちこちに
見られる。
島津氏の薩摩藩は、先述の、幕府から命ぜられるさまざまな負担や、遠路の参勤交代で財力をそがれた上に、
時代が進むにつれて封建社会の矛盾も深まって、大変な財政難に陥っていたという。財政難は各藩も幕府も例外
ではなかったが、薩摩藩では大商人からの借金が500万両にも上り、利息だけでも年に80万両。単純計算での
年利16%は、今のサラ金と比べるとそう高くないように思えるが、藩の年収は15万両に足りなかったというから、
もはやこれでは破産状態。今ならさしずめ「財政再建団体」である。
しかるに1830年代、調所広郷(ずしょひろさと)という家老が出て、これら大商人たちを相手に「さあ、殺せ!」と
体を張って、借金の「無利子、250年払い」を認めさせたという。これだけでもすごいことだが、本来なら250年間、
21世紀になった今日でも続いているはずの支払いは、まだローンが200年以上の残っている明治5年、廃藩置県の
おりにすべてチャラになったと言うから、益々すごいことである。(今日、借金財政にあえぐ某国の首相なり財務大臣
なりが、「さあ、殺せ!」と同じ事をしたらどうなるだろうか?)
さらに支配下に置いた琉球を介して、清国との貿易(幕府から見れば密貿易だ)を行い、しかも、その貿易を金貸し
の大商人たちに担当させたから、彼らにはそれが「無利子250年払い」の見返りとなり、かくて薩摩は見事に黒字に
転換、実にうまいこと財を蓄え、これが倒幕の原動力となってゆくこのしたたかさ。
明治維新をたたえるなら、まずは調所広郷の銅像を建立しなくてはならない。
|
薩摩を出た密貿易船は、トカラ列島を経て、奄美大島・琉球へと進んで行ったことであろう。トカラ列島を経て・・・
そうだった!オレはトカラ列島へ行く話をしていたのであった。ずいぶん話が本題からそれている。しかし、次回もまた、
鹿児島の話が続くことになる。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
←前章へ 目次へ トップへ 次章へ→
旅のアルバムへ