2009722 トカラ列島 宝島
             - 錦江湾-

フェリー「あけぼの」

 全長145メートル、幅24メートル、排水量8083トン。フェリー「あけぼの」は、まるで
ビルディングのような巨大な船である。私の職場は4階建てだが、それよりも高くそびえているよう
に見える。それもそのはず、この船は6階建てなのだ。

 フェリーと聞いて私がイメージするのは、瀬戸内海を行き来するような、そして本日、鹿児島から
桜島へ渡った時に乗ったような、ミニ航空母艦というか、ビッグ上陸用舟艇というか、自動車を積む
甲板の上に柱を立てて艦橋や居住空間を設け、前後に車が乗り下りするための鉄板がついて、それが
上がったり下がったりする、そんなタイプの船である。しかし、目の前の「あけぼの」はそんな作り
ではない。空母や上陸用舟艇ではないのである。外洋を行くフェリーがそんな隙間だらけの作りでは、
風雨が激しければすぐに浸水してしまうだろう。「あけぼの」は、フェリーとは言うが、外見上は
完全な船である。車や荷物の積み下し口も非常にしっかり出来ている。そして巨大なのである。主な
積み荷が車だから、フェリーと呼ぶのであろう。

 で、私と同じコースに参加するツアー客は、フェリー「あけぼの」か、フェリー「きかい」のいずれ
かに乗ることになっているが、「あけぼの」は排水量が「きかい」の三倍近い大型船だという。ほかの
コースでも、いろいろな船が用意されているようだが、その中にあっても「あけぼの」は最大の船。
これから乗り出す東シナ海は波が荒く、船の揺れも激しいというが、こいつなら安心だ。まさに
「おおぶねに乗った気分」で旅ができるというものだ。

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 トカラ列島各島へ上陸するためには、最終的にはフェリー「としま」を使わなくてはならない。
「あけぼの」のような大型の船を着岸させる設備がないからだ。「としま」は、鹿児島と、奄美大島の
名瀬の間を行き来している小型フェリーで、一度に200人しか乗れない上に、鹿児島〜名瀬を片道16〜7
時間もかかる。つまり1日がかりで片道しか運行できず、200人しか運べないと言うことである。
1500人とも言われる皆既日食ツアーの客を短期間に捌くのは大変だ。

 フェリー「としま」には、鹿児島から乗るのが一般的である。日本に住む大多数の人にとって、
鹿児島なら鉄道でも車でも飛行機でも、交通の便が良いからである。しかし鹿児島だけから人を
乗せていたのでは帰路が空船になって効率が悪い。「としま」の帰路の出発地、名瀬からも満員の
200人を乗せられれば、輸送力は二倍になる勘定だ。そこで、今回は名瀬にもめいっぱい人を集める
ことになった。

 「名瀬まで来い」と言われても、我々一般人はどうして良いかわからないから、ツアー会社は
鹿児島と那覇に人をいったん集めることにした。那覇は、飛行機の確保が大変だろうと思うが、
それでも、鹿児島か那覇なら、普通の人でも、まあ、なんとかたどり着けるだろう。人々はそこから
大きな船で、まず名瀬へと送られるのである。ちなみにこれから乗る「あけぼの」は乗客定員682名の
大型船だ。

 で、私たちは、このフェリー「あけぼの」で、名瀬へと送られる仕組みなわけである。目的地の
トカラ列島の横を1回素通りしてしまうことになるが、大型船が着岸できないトカラの事情を考えれば
致し方ない。この案を立てたのは旅行業者だから、その道のプロであるが、うまく考えたものだと
感心する。立案者は相当な切れ者に違いない。


   


 「あけぼの」も、「としま」も、その他も、今回のトカラ皆既日食のためのフェリーはみんな
定期航路の船で、特別にチャーターされてきた船ではなかった。さすがに「としま」だけは特別の
運行日程を組むが、その他は通常の運行ダイヤであるという。それを知って、ちょっとうれしく
なってきた。貸し切りチャーター便ではない、定期運行の乗り物を使うということは、それだけ
自分で計画した旅に近いと言うことだ。パッケージツアーではないという気分に、ちょっとだけ
なれたからである。(実態はどこまでもパッケージツアーであるが・・・)

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 さて、その巨大なフェリー「あけぼの」である。乗船を待つ行列ができはじめた。岸壁の広場が
大勢の人で埋まって行く。私も、急いでその列に並ぶことにした。どこが入口かと見ると、舷側に
かけられたラッタルが、海面遙か上方、船の4階部分まで続いている。

「まさか、あそこではあるまいな・・・」と思っていると、乗船開始、先頭の人がラッタルを
昇り始めた。

他に入り口はないのか・・・と捜すが、どうも入り口はその一カ所だけらしい。私は極度の高所
恐怖症、あんな高いところまで、あんな華奢なラッタルを昇るなどと言う行為は恐ろしくて出来ない
のである。

ここまで来ながら、皆既日食の島へ渡るのを断念せねばならぬのか・・・。
否!オレは断固行くのだ、宝島へ!

しかし・・・もし足を踏み外したら命はない、踏み板が割れたらどうしよう・・・などと心は
葛藤を繰り返す。そうこうしているうちに、自分の番が来てしまった。

 「こんなことで、すべてをつぎ込んできた皆既日食を逃すわけには行かないのだ!」と自分を
叱咤激励し、意を決してラッタルに足をかける。恐れていたとおり、踏み板と踏み板の間は
何もなく、向こうの景色が丸見えである。私の最も忌み嫌う造りの階段だ。下を見ないように、
前も見ないように、なるべく上の方を見つめながら、こわばる体と心を励まして、一歩ずつ踏み
しめるようにラッタルを昇る。万が一、踏み板が割れたとき体を支えるため、全力で手すりを
握りしめる。私の後ろから次の人が昇って来る。こら、重さでラッタルが壊れるじゃないか!
そんなに早く、上がって来るんじゃない!助けてくれ!

 「乗らばおおぶね」とはいうものの、大船は乗り込むまでが命がけだ。幸い半分ほど昇った
ところでラッタルの作りが良くなり、踏み板と踏み板の間に目隠しの板が入って向こうが見え
なくなったので、すこしは体も動くようになり、なんとか4階部分の入り口までたどり着いた。
ホッとして後ろを振り返ると、そこは目もくらむ高さ。私を奈落の底へ引きずり込もうとする
おそろしく強い力を感じ、それに抗して必死に船の入り口に体をねじり込む。もはや精も根も
尽き果てた。黄泉の国から生きて帰るというのは、きっとこういう感覚なのであろう。

 私は一応健康な人間だ。ということは、大多数の人間は高所平気症という重篤な病に冒されて
いるのだ。この病に冒された人はいずれ高いところに昇って、落っこちて、人類は遠からず滅亡の
危機を迎える事だろう。だが、私には、その危機を生き延びる自信がある。

 ともあれ、乗ってしまえばこっちの物、「乗らばおおぶね」である。入り口を入ると、そこは、
大きなエントランスホールで、まるでゴージャスなホテルのフロントだ。階段部分が上の階まで
吹き抜けになっている。ホールはものすごい人でごった返している。

 大型船とはいえ、こんなに多くの人が乗り込むのでは、船室はやはりギュウギュウ詰め、最盛期の
山小屋か、奴隷船の船底と同じで、すし詰めの蒸し風呂状態となるに違いない。出発前の心配的中だ!
と思いつつ、指定された2等船室(5階の大広間)に行ってみると、そこはエアコンがよく効いた部屋
だった。幅8〜90センチ、長さ190センチほどのマットがずっと敷き詰められていて、それ1枚が
乗船客一人分の指定スペースだ。昔、修学旅行で行った奈良や京都の旅館ぐらいのスペースはある
(ホントはそれよりは狭いんだろうけれど)。寝転んでみると、隣の人との間隔は十分に保てるようだ。
頭の方にはカラーボックスほどの形とサイズで、自分専用の荷物置きと衣類掛けのスペースが確保され、
毛布も置かれている。思っていたよりはるかに快適で、これなら安らかな睡眠をとることが出来るだろう。
実際にはずいぶん狭いスペースなのだろうが、最初に抱いた奴隷船のイメージが悲惨だった分、現実を
好意的に受け入れられるというものでる。

 考えてみれば、安全問題が喧しい今日、定員を超えてフェリーに人を乗せることはさすがにしない
だろうし、今時ちょっとしたサイズの船ならエアコンぐらいは標準で装備しているだろう。出発前に
抱いたすし詰め・蒸し風呂・奴隷船のイメージは、冷静に考えてみればありえないことであったのだ。
電池式扇風機や冷却スプレーなどを山ほど買い込んだことが気恥ずかしくなってくる。背負ってきた
リュックのかなりのスペースが、それらの品々で占められているのだから。まあ、知らないと言う
ことは、そういうことなのだ。


出 港

 大部屋の船室が、次第に乗客で埋まっていく。みんな大きな荷物を持っていて、ほとんど全員、
皆既日食を見に行く人たちだろう。向こう側に座った二人組が、ビデオカメラを出していじっている。
「皆さんも皆既日食を見に?」と声をかけたいが、明らかにアマチュア仕様ではない大型のビデオカメラは
「キミたちとは次元が違うんだよ」というオーラを放っていて、私はお近づきになる勇気が出て来ない。
ここにいるのはみんな、わざわざ大枚をはたいて皆既日食を見に行こうという連中である。いずれ劣らぬ
天文マニア、どうせただの者ではあるまい。まわりの人がみんな猛者に見えてくる。

 こういうとき、仲間がいたら心強かったのに・・・昔のサークルの仲間を誘ってくれば良かったなあと
思うが、この、高いツアー料金では家庭不和の元をまき散らす事になるから、おいそれとは誘えなかった
のである。目の前の、プロ仕様ビデオの二人組がうらやましくもある。落ち着いて眺めてみると、一人で
参加している人が多いようだ。理由はやはり、経済的なものだろう。みんな、私と同じで、他人ばかりの中で
どう振る舞ったらいいのか、戸惑っているようだった。

 一人で船室にいても仕方ないので、船内探検に出た。4階・5階部分は両舷に幅3メートルほどで
あろうか、木製の甲板があり、ベンチなども置かれていて、フェリーなのにちょっと豪華客船の雰囲気が
ある。最上階へ上がってみると、船の後部約1/3が体育館ほどもある広々とした甲板になっていて、
へリポートとしても使える仕様だ。すでに大勢の人がそこに上がって出航前のひとときを過ごしている。
船の中程に巨大な煙突がそびえ立ち、その前が艦橋だ。船首前方には夕日を浴びた桜島が見えている。

 車両積み込み用の通路が外され、高所恐怖症の私を苦しめた舷側のラッタルも入り口が閉じられた。
そろそろ出航か、と見ると、色とりどりの紙テープが船と岸壁をつないでいて、盛大な見送りである。
見送られている船上の人は2〜3人のようだが、岸壁には大勢の人が来て、紙テープの端を握っている。
この人たちは、こんなに盛大な見送りを受けて、いったいどこへ行くのだろう?言うまでもない、
トカラ列島に決まっているではないか!皆既日食観測隊が、国民の期待を一身に背負って、今旅立つの
である。我が事のように感激し、ここまで電池を温存して使わずにいたビデオカメラを取り出し、出発
風景の撮影にいそしむ。

 やがて「あけぼの」は、船体の横から岸壁に向けて強力な水流を吹き出しはじめた。水圧によって船は
岸壁からしだいに離れ、やがて前進を開始する。見送りの人が盛んに手を振っている。「本船は、午後六時、
鹿児島新港を出港いたしました。」のアナウンス。岸壁を離れた瞬間を出港というのだと知った次第。

 舳先をつきあわせるように停泊していた、これまた大きな船の横をゆっくりと通り過ぎ、「あけぼの」は
防波堤の先を右に回って鹿児島新港の外へと乗り出してゆく。桜島が前方から左舷へと位置を変えてゆく。
防波堤の突端に、サマーベッドを持ち込んで涼んでいる人が見える。のどかな夏の夕暮れ時だ。


錦江湾は大きくて

 フェリー「あけぼの」は、長い航跡を引きながら錦江湾(鹿児島湾ともいう)を南下してゆく。
後ろに見える桜島が、次第に遠ざかる。西日が海面を煌めかせ、右舷の薩摩半島をシルエットに
している。多くの人が、甲板の手すりにもたれて、この光景に見入っている。大学のサークルのような
若者の集団もいて、自分の過去がオーバーラップして、ちょっとうらやましかったりする。懐かしい
「彼ら」と共に、この旅をしたかった。

 太陽が雲の後ろに入り込むと、雲間から幾筋もの光条が延びて来た。

「見てみい、軍艦旗や!」

映画「トラ・トラ・トラ」のセリフが頭をよぎる。真珠湾攻撃隊の行く手に現れた光景だ。
行くよ一途に宝島!またしても右よりの思考が頭の中を巡っている。この船の巨大な甲板は、
まるで空母か航空戦艦だ!私の頭の中は、「出撃」気分で一杯だ。

 夕日に輝く錦江湾を写そうとしてビデオカメラをパンさせていると「あ、すみません」と言って、
視界からどいてくれた人がいた。

「ご丁寧にありがとうございます。」

それをきっかけに、Nさんと話をするようになった。スポーツ刈りにメガネ、白いポロシャツの
好青年である。首から、私と同じ水色のツアーパスを下げている。と言うことは、彼も行き先は
トカラ列島・宝島。私と同じG-2コースと言うことだ。お歳はアラサー(arpund thirty)ぐらい
かな?

 「ほら、ダイヤモンドリングですよ!」

Nさんの指さす方を見ると、雲間からちょっとだけ顔を出した太陽が、ピカリと光っている。おお、
これは!まさしくダイヤモンドリング!こいつは縁起がいい。プレ皆既日食だ!

 Nさんもさぞや相当な天文マニアだろうと思ったが、そうではないという。たまたまこの時期に
休みが取れたので、皆既日食ツアーに参加してみようかと思い立ったのだという。もし、悪天候で
日食が見られなくても、残りの日々で開聞岳や霧島など、南九州の山々を巡り歩くから、それでOKだ
という。

「重たい登山靴を持ち歩くのは大変でしょう」

と言うと、すでに宅急便で宿に登山靴を送ってあるという。しかし、ウ〜ム、そういう価値観の人も
いるのか・・・。これだけの大金を払って、「日食は見られなくても」とは・・・。いや、彼の価値
観はともかく、私としては何としても晴れてもらわなければ困るのだ。

Nさんに

「ダイヤモンドリングやコロナの写真が撮れたら、ぜひください」

と言われ、

「いいですよ、任せてください」

と自信を持って請け合う。これがいかに安請け合いであったかは、後でイヤと言うほど思い知ることに
なるが、それはまだずっと後の話。

 Nさんと、四方山話をしながら、甲板をあちこち歩き回る。ブリッジ(艦橋)の近くには、色々な
構造物が突き出している。床から突き出た太いパイプの先が四角く開いているのは、換気口だろうか。
1メートル四方ぐらいの吹き出し口から冷たい風がガンガン吹き出して来る。

「こりゃ、涼しくていい」

と、その前にしばらく立っていたら、あっという間に体が冷え切ってしまった。巨大な船の中の
空気が、すべてここから排出されているのかもしれない。それにしてもこの冷風、艦内はそうとう冷房が
効いているのであろう。このままここにいたら、凍え死んでしまいそうだ。(奴隷船の船底の蒸し風呂を
イメージしてきたやつは、誰だ!?)そこを離れると、心地よい潮風で、再び体が温まってきた。

 船はさらに南下を続け、桜島はもう見えなくなった。西には薩摩半島、東に大隅半島、二本の半島が
平行に延びている。南方は開いていて、そこが湾の出口なのだろう。水平線が遙かに霞んで見えている。
すぐにも外洋に出ると思っていたのだが、出港からかなりの時間が経って日暮れも近いのに、いっこうに
湾口にたどりつかない。船上で受ける風からすれば、船足は結構速いと思うのだが・・・。

 「そうか、鹿児島湾(錦江湾)は広くて大きいんだ。」

そう思ったとき、ふとバイブル『1963721』の一節が頭に浮かんできた。青函連絡船で北海道へ向けて
出航した場面である。

「陸奥湾はかなり広くてこれを出て、津軽海峡に入るころに夜となった。」

 今、私がいる、錦江湾の広さや時間帯とまったく同じではないか!このフレーズをそっくりそのまま、

「錦江湾はかなり広くてこれを出て、東シナ海に入るころに夜となった」

と言い換えることが出来る。

 そういえば、あの知床の皆既日食は7月21日。今回は7月22日、日にちはたった1日違うだけだ。(こんな
簡単な符合に今頃になって気がつくとは・・・。どうして今まで気がつかなかったんだろう?)そして、
行き先はどちらも辺境の地。北と南の違いはあるものの、私は今、四十数年前に皆既日食に挑んだ大先輩方と
そっくりな旅をしているのだ。そう思うと、感動がこみ上げてきた。先輩方が皆既日食観測に成功したことを
思えば、今回も大勝利は間違いなしだ。


開聞岳

 やがて、船の右前方に開聞岳が見えてきた。薩摩半島の南端に位置する名山で、別名を薩摩富士とも
呼ばれ、見事な円錐形をしている。今日は雲が、山の形そのままに山体を包んでいて、何とも不思議な
光景である。すでに日が沈み、山を包む雲は紫色にくすんでいて、なんだかブルーベリーのシャーベット
を丸く盛りつけたような肌合いだ。鹿児島へ来る飛行機の窓から見えた、雲の座布団をかぶった山々と
同じ状態なのだろう。

 私が開聞岳の名を初めて知ったのは小学生の時であった。特攻隊の悲話を描いたマンガに開聞岳が
出てきたのである。だから私の中で、開聞岳はどうしても特攻隊と結びついている。その山を、今
初めて間近に見る。錦江湾を挟んで、西に知覧、東に鹿屋と、二つの特攻隊基地があった。沖縄へ
向かう特攻隊の若者達は、いったいどんな想いで、この美しい山を見つめたことだろう。私の父は、
予科練にいた。もし、もう少し入隊が早ければ、私は今、ここにいなかったかもしれない。

 開聞岳は、船の右前方から横へ、そして右後ろへと次第に位置を変えて行く。その手前の海岸線は
切り立たった崖で、周囲には柱状に尖った大きな岩が、何本も突き出している。灯台があるのか、
明滅する光点が見える。このあたりが薩摩半島の突端なのだろう。進むにつれて海が開け、開聞岳の
シルエットが遠ざかる。暮れかけた空には、一連なりの高積雲の群れ。紫立ったその雲の下半分を、
残照があかね色に染めている。今日一日を締めくくるにふさわしい大パノラマだ。


外洋へ

 薩摩半島を過ぎ、いよいよ外洋へ出るのかと思ったが、左舷にはまだ大隅半島が続いている。
とっぷりと暮れた群青色の空を背景に、半島の小高い丘陵が見えているのである。所々に灯火
らしきものも点いている。本当に鹿児島湾は広いというか、長いというか、大きいのである。
それでも丘陵の稜線にかかる一連の灯り(ロープウエーだろうか?)が見えたあたりで、ようやく
大隅半島もその端が近づいたらしかった。完全に夜のとばりが下りるころ、フェリー「あけぼの」
は佐多岬を通過して、外洋に出たようである。夜8時を大きく回っていた。

 そのころから、船の行く手に断雲が増えてきて、一抹の不安が頭をよぎる。この先の空は、常に
快晴であって欲しいのだ。「臆病者めが、何を弱気なことを言っとるか、たるんどる!あくまでも、
22日は晴れるのだ!」(ああ、精神論とは、何とムナシイものであることか!)

 雲間から赤い星が一つのぞいている。ほれ見ろ、やっぱり、晴れるのだ!とばかり、

「あれはアンタレスではないでしょうか」

などとNさんと話しあう。船の進行方向からして、たぶん間違いないだろう。星座の形を確かめたいが、
雲が多い上に、甲板は照明に煌々と照らされているのでまぶしくて、その他の星は一つも見えなかった。

 夕飯を食べようと、階下の大きなレストランへ行ってみる。不思議なことに食事をしている人は
誰もおらず、ツアーのスタッフとおぼしき人たちがミーティングをやっていた。「このレストランは、
どうなっているんだ?そうか、スタッフの会議室として借り上げられているんだ」と勝手に思ったが、
実は今日は満員の乗船客、あっという間に売り切れてレストランの営業を終えていたのであった。
「慌てぬ」乞食はもらいが少ないのが、閉ざされた世界の掟であるようだ。あと船内で手に入る食料は、
自動販売機の軽食くらいのものである。幸い、私にはコンビニで買い込んできたパンがある。(時間が
無い中でも、買っておいて良かった!)

 船のホールにいくつかテーブルとイスが置かれているので、そこで食事にする。Nさんは、鹿児島で
仕入れた焼酎をちびりちびり、私は酒にはめっぽう弱いので、パンとジュースでご相伴。見れば、
イスもテーブルも、クサリで床につながれていて、動かせる範囲は半径3〜40センチくらい。
船が揺れるときの危険防止策なのであろう。そういえば、錦江湾を出てから、だいぶ船の揺れというか、
振動を感じるようになってきた。これがピッチ&ロールというやつであろうか。船体が波に揉まれている
感じがよく伝わってくる。東シナ海は波が強いので有名だ。こんな大きな船でも、シケの時は、よほど
揺れるのであろう。

 航路図を見るとフェリー「あけぼの」は、屋久島のすぐ西を通ることになっている。そろそろだろうと、
Nさんと再び甲板に出てみると、左舷方向、高度20°位の所に一つだけ、光る点があった。星だろうか?
この時刻に、この方向に明るい星があったかどうか、とっさに思い浮かばない。人工の光か?だとすれば、
かなり山の高いところにある明かりだが、人工光なら、これ一つしか光がないと言うのもおかしな事だ。
真っ暗で、島らしき影は全く見えない。そこに屋久島が有るのか無いのか、それさえ皆目見当が付かない
のである。今、自分たちがどこを通っているのかも、何を見ているのかも、分からない。これが大自然の、
原始の闇というものなのだろう。コンパスやレーダー、GPSなど、様々な装置を備えているとはいえ、
よくまあこんな真っ暗い海を、船は方向を違えずに進めるものである。眼下の暗い海面を、「あけぼの」の
蹴立てる波だけが白く後方へと流れてゆく。

 船室の自分のスペースに戻る。Nさんのスペースは別のブロックなので、明日の朝までさようなら。
旅の二日目。鹿児島〜桜島〜錦江湾、今日も長い一日だった。狭いながらもエアコンが快適にきいた
マットに横たわると、生きている充実感が湧いて来る。が、それをかみしめている暇もないままに、
私の意識はゆらゆらと、深い眠りの淵へ沈んで行った。

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