2009722 トカラ列島 宝島
             - 大海原を行く-

フェリー「としま」



 全長 85.8m、幅14.6m、総トン数1,391トン、航海速力 19ノット、 白い船体に
青のロゴマーク、船体の下半分も青く塗られているスマートな船である。

 オレンジ色の二本のファンネル(煙突)には十島村の村章が描かれ、舳先には青く
「フェリーとしま」の文字。船の舷側に青く描かれているのはトカラのシンボルマークだ。
七つの島をイメージした曲線(この曲線は波にも見える)とTOKARAの文字を組み
合わせたデザインセンスは秀逸だ。

 最上階(4階になるのだろうか)にあるブリッジの窓から顔を出している、白い船員服
に白い制帽をかぶった人物は、きっと船長に違いない。サングラスをかけて、ちょっと
マッカーサーに似ている。

 手すりには、「ようこそ2009皆既日食トカラ列島!」という横断幕。ついに、ついに
この船に乗ることが出来るのだ。この船に乗ればトカラ列島へ、皆既日食の島へと行く
ことが出来るのだ。

 船の入り口は、岸壁からそう高くない所(1.5メートルくらいか)にあり、そこに
板状のタラップが架けられている。「あけぼの」のように高いところまで上がらなくても
船に乗り込めるので、高所恐怖症の私にはとてもありがたい。

 4時30分、乗船開始。ジュラルミン製の橋みたいなタラップを渡って、船内に入り、
一つ階を上がったところが我々の二等船室の大広間だ。室内は、通路でいくつかの
ブロックに分けられ、カーペットが敷しかれている。そこに、きれいにたたまれた
青い毛布と枕がきちんと並べて置かれている。毛布1枚の面積が一人分の居住空間で、
座席指定となっている。毛布にも、トカラのロゴマークが入っているのがうれしい
ではないか。頭の部分には荷物置き用の棚が人数分作り付けてある。今日は宝島G-2
コース参加者200名が乗船している。200名ということは、この船の定員一杯の人数が
乗船していると言うことだ。普段はきっとガラガラであろうこの大広間も、本日は
満員御礼。トカラ航路始まって以来の快挙に違いない。

 かくて無事に船に乗ることができた。航海を阻む台風も来ていない。新型インフルエン
ザに感染したふうもない。ここまで来ればこっちのもの、間違いなく宝島へ渡る事が
出来るに違いない。私は、かねて持参のハガキを取り出した。「皆既日食を見に、
トカラ列島・宝島に来ています」と鼻高々に宣言した、あのハガキである。(「準備編
通信班」のページ参照)

 宝島に渡る事が出来なければ、このハガキは無駄になってしまうので、今まで切手を
貼れずにいたのだが、宝島に渡れると確信した私は、ここで切手を貼ることにした。
あとは宝島郵便局でこいつを投函すれば・・・ウッフッフ、受け取った人たちの、羨望の
まなざしが見えるようだ。

 席の指定は、ツアーの受付順に割り振られているようだ。私の部屋には午前中に
カヌーを一緒にやった人たちは見当たらなかったが、他の人々も、昨夕以来ずっと行動を
共にしてきているので、お互い見慣れた顔になってきていて、何となく話しかけたいよう
な、しかし遠慮があるような、微妙な空気が漂っている。

 そんな折り、日に焼けた精悍そうな顔立ちの男性が持っているカメラが目についた。
どう見ても懐かしいオリンパスのOM-1か2見えるのだが、はて、そんな事って有るのだ
ろうか?1970年代生まれのこのカメラが、まるで新品のような輝きを放っているでは
ないか。「それはOMですか?」と勇気を出して聞いてみると、まさしくOM-1だと言う。
なんときれいに使っていることよと感心していると、彼はおもむろにセームクロスに
包まれたレンズを取り出し、「オリンパスの名玉と言われた90oを持ってきました。」
とのたもうたではないか。この人は、筋金入りの猛者に違いない。

 こちらの色白の、体の大きな男性が持っているカメラは、OM-1よりもっとレトロな
オリンパスペンに見える。こいつもとってもきれいな状態だ。今日は、いにしえの
オリンパスに縁のある日だと思ったが、それにしても、いくら何でもこんなにきれいな
はずはないと思って見せてもらうと、確かにオリンパスペンだが、なんと現代によみが
えったデジタルのオリンパスペンであった。しかもレンズ交換の出来る一眼カメラで、
ファインダーのないミラーレスと言うタイプだという。オリンパス恐るべし。この男性は、
日食旅行のためにこのカメラを注文して、ようやく間に合ったと言っていた。これまた
筋金入りの猛者である。

 これらのカメラで、彼らがどんな日食写真を撮ろうと企んでいるのか私には想像でき
ないが、猛者連があえて持ってきている以上は、考えがあるのだろう。そういえば、
おととい鹿児島のドルフィンポートで出会った女性は、日食のために魚眼レンズを買って
来たと言っていた。(「鹿児島@」のページ参照)私がイメージする日食写真を撮るには、
望遠レンズが必須なのだが、もしかしてそれは固定観念なのではあるまいか?もっと別の
日食写真の撮り方があるのではないか?様々なカメラを前にしてそんな不安が湧いて
くる。いや、ここまで来て、いまさら新たな撮影計画を入れる余地はないのだ。人は人、
我は我。迷いは禁物だ!己を信じて、既定路線を、我が道を、突き進もう。

 カメラを介して、遠慮がちに、少しずつ話が弾みだした。今回のツアーへの参加申し込みや
荷物の送り方などが話題になる。「カメラだけは宅急便では送りたくないので自分で持ってきた」
と、皆さん異口同音のおっしゃる。私はカメラを4台も宅急便に入れて送ってあるので、
なんだか肩身が狭くなってきて、そのことを言い出すのがはばかられる。

 話題は次第に日食のことに移って行き、1987年9月の沖縄金環日食の話になった。
この日食はありがたいことに、ちょうど秋分の日の祝日に起こったので、ゆっくりと楽しむこと
が出来た。若き日の私は実家の庭で、望遠レンズをつけたカメラを赤道儀に乗せてガイド
しながら見たものであった。私の所では部分日食であったが、これがはじめてガイド撮影
した日食だったので、強く印象に残っている。当時は減光フィルターも十分には持って
おらず、撮影にはかなりの苦戦をしいられた。しかし、テレビのニュースで見た、黄金の
環の美しさは大変印象的で、いつかは金環や皆既を見てみたいと思ったものであった。

 あの時の那覇は降水確率100パーセントという予報だったのに、さあ、と言うときに
雲が切れ、金環食がバッチリ見えたのだと、OM-1 の名玉氏が言う。そうだったのか!
こいつは縁起のいい話を聞いた。あの日の沖縄で晴れて、今度のトカラが晴れないはずが
あるもんですか!「天は自ら助く者を助く」と言うではありませんか!(何を持って
「自ら助く」と言うのですか?まったく根拠のない自信、いや、過信、いや、妄信です)

 船内を巡ってみる。1階は、ホテルのフロントに似た小さな案内所と二等船室で、2階の
後ろ半分も二等船室だ。前半分の入り口にはカーテンが掛かっていて、この奥には寝台付きの
船室があるらしい。艦内の階段を上がって3階へ行くとそこが食堂と売店だ。食堂には
テーブルがいくつか置かれていているが、思ったより狭くて、簡素な感じである。売店も小さな
スペースで、ガラスケースの中にお菓子やつまみが少しだけ並んでいる。駅のホームで、店員が
一人だけでやっている売店ぐらいのサイズである。そこから新聞と雑誌と飲み物を撤去して、
食品の品数もうんと減らしたのが「としま」の売店のイメージに近いであろうか。それでも
トカラの子供達は、この小さな店でお菓子を買うのを楽しみにしているという。店というものが
存在しない島々の暮らしの一端がかいま見えるような気がした。

 1階の案内所のあたりで、弁当が配られるという。今夜から宝島を離れる日のお昼まで、この
ツアーには食事がつくのである。サンタクロースの袋みたいな大きなビニールの袋に、幕の内弁当
がいっぱい入っていて、係の人がそれを配っている。同じようにして汽車に運び込まれた修学旅行の
弁当を思い出した。夕飯にはまだ早いが、東シナ海は揺れが激しいという。出航前に弁当を食べて
おいた方が賢明だろうと、食欲だけが取り柄の私は早弁の正当化をする。。

 この船は、船室は飲食禁止になっている。そのかわり食堂は、料理を注文しなくても自由に使って
よろしいとのことなので、弁当を受け取って食堂へ行き、一人テーブルに着く。料理は注文しなくて
良い、自由にテーブルを使って良い、と言うのだが、初めての場所で、知らない人の中で、たった一人
で食べる弁当は、なんだか後ろめたくて落ち着かない。私は小心者の異邦人だ。

 食事を終え、3階から外の通路に抜けて、ラッタルを上がると最上部の甲板に出た。甲板の
端に立って下を見下ろすと、「あけぼの」ほどではないが、それでもかなりの高さがある。
海面から最上甲板まで10メートル以上はあるだろう。

 緑に塗られた甲板には、直径数メートルほどの円が描かれ、その中にHの文字が書かれ
ている。ヘリポートになっているのだ。そのすぐ脇に、高さ3メートルほどの構造物が
あるので、ヘリのプロペラが当たるのではないかと、心配になる。甲板には、たくさんの
小さくて丸い鏡が、渦巻き状に貼り付けられている。きっとこの鏡がキラキラ光って、
空から「としま」を発見しやすいようになっているのだろう。甲板の隅にあるパイプの
先端部とおぼしき小さな突起物に、船員さんがペンキを塗っている。見ればそこには、
すでに白いペンキがゴテゴテと厚く塗りたくられているのに、その上からさらにペンキを
塗っているのである。サビが出るたびにペンキを重ね塗りしているのであろうか。海に
浮かぶ鉄製の船は、日々サビとの戦いが運命付けられているのであろう。

 日がだいぶ西に傾いて午後6時、フェリー「としま」は名瀬を出航した。見送りは赤い
Tシャツのスタッフが二人だけ。船に向かって一生懸命手を振ってくれた。これから行く
ルートは、実はすでに昨夜フェリー「あけぼの」で通ってきたコースである。しかし昨夜は
ほとんど夜の闇の中で、しかも船内で寝ていたのである。明るい時間帯に乗り出す東シナ海
には、初めて行くようなワクワク感があって、気分が高揚して来る。

 名瀬港の出入り口には、左右から防波堤が張り出していて、「としま」は、その防波堤の
間をゆっくりと抜けて行く。右舷方向には半島が、北に向かって延びている。小高い山が連なり、
正面から西日を浴びた松の森が美しい。その下は波打ち際まで一気に切れ落ちた険しい断崖に
なっている。船が進むにつれて左舷側が東シナ海に向かって大きく開けて行く。先ほどカメラ談義を
した猛者連中も甲板に上がって出航の様子を楽しんでいる。その手には、それぞれのカメラが、
ちゃんと握られている。

 私の横で、手すりに体をもたせかけて海を眺めている男性がいた。ヒゲ面にサングラスをかけ、
トカラ皆既日食のマークが入ったTシャツを着たその姿は、なかなかにキマッている。トカラへは、
これが4度目の渡航だという。この人も、そうとうな猛者に違いない。

 北上する「としま」とすれ違いに、大型のフェリーが名瀬港に向かって南下して行く。
昨日乗った「あけぼの」と同じマルエーのマークがついている。きっとあの船にも、明日
トカラへ渡る人たちが大勢乗っているのであろう。しかし、彼らがトカラに向けて出航
するのは明朝だ。ありがたいことに我々は一足お先に、今夜のうちにトカラの島へ渡らせ
ていただける。皆既まであと40時間あまり。先に現地入りする我々は、明日の昼前、
すなわち皆既日食が起こる1日前の同じ時間帯に、現地リハーサルが出来るのである。
これは、圧倒的に有利な条件となるであろう。明日奄美を出ても、もはや同じ時間帯での
リハーサルは出来ないのだ。この、宝島へのツアーを選んで大正解だ。


フェリー「としま」特別運行スケジュール

 通常、フェリー「としま」は鹿児島〜宝島を週1往復、鹿児島〜名瀬を週1往復、
合わせて週に2往復の運行をしている。片道を行くのに1日かかるから、週に4日間
洋上を走っている計算だ。しかし今回は大勢の人をさばかなければならないため、特別の
スケジュールが組まれ、日食前後の10日間あまりは連日運行するという強行な日程に
なっている。しかも、深夜着・翌早朝出発の連続だ。乗組員の皆さんの疲労や船のメンテ
ナンスが心配であるが、今は私たちの「わがまま」のためにがんばっていただく他はない。

 本日、20日の夕方、我々が乗って名瀬から出航した「としま」の運行は、特別のスケジュール
の中でもことさらに特別なパターンとなっている。名瀬を出た「としま」は通常必ず鹿児島まで行く
のだが、今日は宝島までしか行かない。名瀬港から最も近い宝島までは、片道3時間ほど。夜のうちに
一回、宝島まで人を運び、深夜に再び名瀬に戻って、明け方にはまた、トカラの各島へ向かう人々を
乗せて出港するという強行軍だ。こんな運用をよく考えついたものだと感心するが、船の運行スタッフ
は大変だ。おそらく交替で休憩はとるだろうが、まともにやっていたら寝る暇もない。交代要員は
いないであろうから、本当にご苦労さまである。

      
フェリー「としま」特別期間の変則運行ダイヤグラム
 18日  鹿児島(17日23:50)発 → 各島 → 宝島(13:05) → 名瀬(16:20)着
 19日  名瀬(4:00)発  → 宝島(7:00) → 各島 → 鹿児島(20:30)着

 20日

 鹿児島(23:50)発 → 各島 → 宝島(13:05) → 名瀬(16:20)着
 
名瀬(18:00)発  → 宝島(21:00)着(これが我々が今乗っている便!) 
 宝島(21:30)発 → 名瀬(21日 0:30)着
 21日  名瀬(4:00)発  → 宝島(7:00) → 各島 → 鹿児島(20:30)着
 22日  鹿児島(5:00)発 → 各島 → 宝島(18:20) → 名瀬(21:40)着
 23日

 名瀬(4:00)発  → 悪石島直行(7:40)
 悪石島(8:15)発 → 小宝島・宝島 → 名瀬(13:50)着
 24日 名瀬(4:00)発  → 宝島(7:00) → 各島 → 鹿児島(20:30)着
 25日 鹿児島(24日23:50)発 → 各島 → 宝島(13:05) → 名瀬(16:20)着
 26日 名瀬(4:00)発  → 宝島(7:00) → 各島 → 鹿児島(20:30)着

 皆既日食の前後、19日〜24日は、まさに殺人的スケジュールである。

 通常の運行では名瀬発は早朝である。とすると、名瀬を夕方に出航し、北上しながら
黄昏の東シナ海を眺められる今日の航海は、今回限りの貴重なものとなるかもしれない。


東シナ海へ


 名瀬の湾内は穏やかであったが、ひとたび東シナ海へ乗り出すと、様相は一変する。
今日は風もさして強くはないし、白波が立っているわけでもない。これでも穏やかな方
なのだろうが、揺れる、揺れる。船は上下左右に振り回される。昨日乗った超大型
フェリー「あけぼの」でも少しは揺れを感じたが、その1/3ほどのサイズの「としま」
(そうは言ったって、結構大きな船なのだが)は、強烈に波に翻弄される。横揺れ防止
装置がついていると言うが、そんなこと信じられない揺れ方である。

 揺れは突然、激しくやって来る。すると体が右に左に振り回される。若者たちが、甲板の
端から端までまっすぐに歩けるかという競争を始めたが、まっすぐに歩けた者は誰一人として
いなかった。私も歩いてみたが、数歩も行かないうちに強烈な揺れが来て、体があらぬ方向に
向いてしまうのである。甲板の前にある操舵室の窓越しに前方の水平線が見えるのだが、
それが上へ行ったり下へ行ったり揺れている。時にはその窓枠から、空か海のどちらか一方しか
見えないほどに、船は前後に傾いたりもする。マストの先端を見ていると、カクン・カクンと
上下左右に動き回っているように見える。

 海面から10メートル以上はあるだろう甲板まで、波しぶきが跳ね上がってくる。
カメラにかかったら一発で使用不能になるだろうと思われるほど結構な量が、にわか雨の
ようにバラバラバラっと、上から下から、横からも降りかかってくる。今日はよく晴れて
いるのに、甲板には水たまりが出来ているし、外壁も濡れてヌルヌルしていたので、
どうしてかと不思議に思っていたのだが、このしぶきのせいだったのだ。

 さすがの猛者連も、一人また一人と船内に降りて行ってしまったが、山国育ちの私に
は、海と言うものは極めて珍しいものである。山国で育った者には、海があれば
眺めずにはいられないという遺伝子が組み込まれているらしい。山岳民族たる我が県民が
旅行するとき、車窓から海が見えると、必ず誰かが「海だ!」という叫び声を上げる。
するとその声を合図に、全員がワッとばかりに海側の窓にへばりつく。海が見えた瞬間に
我が県民はその出身が分かってしまうのである。強迫観念にも似た、悲しいまでの、
本能的な海へのあこがれがあるのだ。よって、私も、今日はこのまま行けるところまで
海を見ながら進もうと、酔い止め薬を飲み、最前線たる甲板にとどまる決意を固める。

 船の後方、「としま」が引く力強い航跡のかなたには、まだ奄美大島が見えている。
出航からかなり時間が経って、名瀬の街はもうどこだか分からないが、さすがは「大」島だ。
島影は長々と水平線に横たわり、いつまでもその姿を見せている。ここで携帯電話を
取り出す。完全に陸地から離れると電波が届かなくなり、使えなくなってしまうそうだが、
奄美大島が見えている間は電波状況も良好なようだ。家族あてに現在位置と近況とを
知らせる最後のメールを発信する。なんだか冥王星を過ぎて、地球との交信不能な
太陽系外へと乗り出す宇宙戦艦ヤマトの気分になってきた。

 揺れは相変わらず激しいが、薬を飲んだおかげか、どうやら船酔いにはならずにすみそうだ。
跳ね上がって来るしぶきは、バシャッという波音がしてから最上甲板まで跳んでくるのに数秒
かかることが分かり、身を隠すタイミングを計れるようになってきた。波の砕ける音がしたら、
甲板上の、高さ3メートルほどある四角い構造物の陰に入るのだ。この構造物は風よけとしても
日よけとしても、なかなか具合がよかった。

 ふと気がつくといつの間にか、さしもの奄美「大」島も水平線の向こうへと消えている。
いよいよここは携帯電話の圏外、通信不能な海の真ん中である。


大海原を行く

奄美を出るときは雲一つない快晴だったのに、次第に断雲が増えてきた。
「おや?」っと心中に湧いてきそうになる一抹の不安を
「大丈夫!梅雨はとうに明けている!」
と懸命に否定する。沖縄の金環食を思い起こせ!必勝の信念こそが勝利への道なのだ。

 夏の夕日もかなり西に傾いたころ、左舷かなたの水平線に、島が3つ見えてきた。
大きい島の左脇に小さい島が寄り添い、右に少し離れて中くらいのが浮かんでいる。
サイズこそ違え、みんな吊り鐘の形をした火山島だ。大小三つ、相似形の円錐が並ぶさまは、
エジプトはギザにある三大ピラミッドのシルエットにも似ている。

 どの島も、急峻な斜面が海からいきなりそそり立っているので、人が住むどころか
上陸することさえ難しいだろう。トカラ渡航歴4回の猛者氏が「横当島と上ノ根島」と
教えてくれた。この島々こそ、トカラ列島の南端に位置する無人島なのである。我々は、
ついにトカラの海域に入って来たのだ。

 断雲が、開きかけた緞帳(どんちょう)のように、水平線から少し上にあがり、三つの
島影が、そのわずかに開いたすきまにピタリと収まっている。夕日が、雲のベールの
向こうから黄昏れの空を淡い金色に染め、この海特有の三角波が寄せて来て、水平線と
島々は、船の舷側越しに上下に揺れている。心が震えるほどの、東シナ海の絶景だ。

 「今日は、空が真っ赤に焼けなくて残念だなあ・・・」背中に皆既マークの渡航歴4回
氏がつぶやく。ここにまた来たい、心底そう思う。

 島影は3つなのに、どうして島の名前は二つなのかと不思議だったが、左の大小二島は、
砂州でつながった一つの島なのだそうだ。小さい島が大きい島の横に当たっている、
だから「横当島」というのだろうか? やがて、船が進むにつれて、いちばん左の小さい
やつは、真ん中の大きい島の後ろに隠れて、横当島は「一つ」の島となった。

 フェリー「としま」は、皆既日食のための特別スケジュールで運行している。通常
ダイヤでは、夏の夕暮れ時ににこの島々を見る事は無いようだから、この絶景は本日限定
の、空前絶後の景色なのかもしれない。

 島が次第に遠ざかり、黄昏れていた空は次第に光を失って、暮れなずんで来た。それで
もここは日没の遅い東シナ海、夜の8時を回っても北西の空はいまだかすかに群青色で、
最後の明るさを残している。

 甲板に照明が入った。昨日のフェリー「あけぼの」の強い光と違って、ほんのりとした
明かるさだった。暮れ残っていた空もやがて闇に埋もれて、水平線も何も分からなくなった。
船のまわりに,砕ける波だけが白く見えている。こんな中を、計器があるとは言えよく
航海できるものだ。

 奄美を離れてからは船影を見ることもなかったが、このあたりには漁船もいないの
だろうか。昔、佐渡島で見た日本海には、たくさんの漁火があったものだったが・・・
などと思っていると、右舷前方に小さな光点が見え隠れし始めた。「漁船か?」と思って
目をこらすがはっきりしない。あるいは宝島の灯なのだろうかとも思うが、それにしては
島のシルエットも見えない。そもそもこれが島ならば、民家の明かりなどがいくつかは
点々と見えて来ても良さそうなものだが、光は一つだけだ。

 光る点は、最初は見えたり見えなかったりしていたが、やがて常に確認できるように
なり、点滅していることが分かってきた。これは灯台にちがいない!だとすれば、これは
宝島の灯だ!気持ちが高揚してくる。しかし、その灯はまだほんの小さな点だ。島まで
はまだ、かなりの距離があるのだろう。この光点以外に、漆黒の海に見える物は何も
なかった。

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