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部室の話top 皆実分校 東千田@ 東千田A 東千田B
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クラブ員が集まる場所、部室。大学ではBOXなどと呼ばれることも多いわけですが、我らがクラブの
部室・BOXはどのような変遷を経てきたのでしょうか。
自分が在籍していた時代のことは、あまりに当然・当たり前すぎて、人に説明しようとしてもできない
ほどなのですが、時代が変わり、大学のありようも変わるにつれて、部室はその場所も性格も様々に
変化してきたようです。
会員の心のよりどころでもあった部室についてまとめてみようと思います。(難しいぞ!出来るかな?)
前置き:部室論に関するコペルニクス的転回
我がクラブの部室(BOX)は、その性質から、仮にいくつかに段階分けしてみると、
一つ目:天文学教官室やその付属の部屋を使わせていただいていた時代。
二つ目:東千田キャンパスのドーム下スペースを占拠して使っていた時代。
三つ目:西条へ移転してからの時代。
などという区分が出来るようにも思います。西条移転からも随分時間が経ちましたから、あるいはもう、四つ目、五つ目の時代が
来ているかもしれませんし、もっと別の視点から、別の段階分けの方が適当かも知れません。
実は、この項を書こうと思い立って一つ目と二つ目の段階について考えているうちに、部室というものに対する会員の意識が
全く異なっているのではないか、と考えるようになりました。
私は二つ目の、ドーム下のスペースを占拠して使っていた時代しか経験していません。当時の部室(もっぱらBOXと呼んでいました)は、
部員が集まる場所、悪く言えば「たまり場」でした。そのころの他のサークルの部室のありかたも大同小異で、たまり場としての要素を
強く持っていましたから、私の頭の中には、部室=たまり場、というイメージが非常に強くありました。当時の同年配の会員達も、同じような
イメージを抱いているのではないかと思います。
私は、その感覚をベースに、一つ目の時代の「部室」もイメージしていました。
1950年代、60年代の我がクラブには部室がなく、天文学教官室等に自由に出入りさせていただいていたと、学生時代以来、色々な方から
伺っています。
天文学の教官室には、きっと観測機材などもあって、クラブにとっても何かと便利だし、先生も親しく会の指導をしてくださっていたので、その
親しさ故に先生はそこを部室に近い状態で開放してくださっていたのだ、会員は先生の部屋に集まってワイワイやっていたのだ、と、長いこと
(もう、30年以上)勝手に想像していました。
でもそれは、部室=たまり場という私の固定観念が生み出した妄想であったような気がしてきました。
どうして先生は会員に研究室を自由に使わせてくださったのか、先生も在室していらっしゃる時の雰囲気がどんなものであったのだろうか、
そんなことを考えていくうちに、この時代の研究室の雰囲気は、かなりアカデミックなものだったのではなかったか、そう思えてきたのです。
この時代を記録した『7年の歩み』を読み返すと、部室という表現は一番最後に、たった1回出て来るだけです。皆実分校が東千田キャンパスへ
移転した、1961(昭和36)年3月に「新しい部室に入る」とある、それだけです。他は、「研究室」という表現がされています。
このことからしても、皆実町時代の天文學会の会員にとって、部室(たまり場という意味での部室)という概念は存在しなかったのであって、
先生の研究室は部室の「替わり」ではなく、あくまでも「研究」室だったのではないか、そう考えるようになりました。
固定観念を打破して、新たな視点を手に入れることをコペルニクス的転回というそうです。部室=たまり場という固定観念に何十年も縛られて
きた私には、コペルニクス的転回が必要なのかもしれません。時代や環境とともに、部室の持っている意義が変わるという前提でその歴史を
捉えていかなくてはなりません。
最初に示した3つの区分は、あくまで一つの基準です。これからもコペルニクス的転回が必要になるかも知れません。従って、今は取りあえず、
部室そのものが存在した場所の変遷を追いつつ、部室についてまとめてみようと思います。
(各時代の部室の様子は、以下のリンクをクリックしてご覧下さい。)
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