皆実分校時代 1954(昭和29)年度?〜1960年(昭和35)年度の終わり頃まで
部室の話top 皆実分校 東千田@ 東千田A 東千田B
西条 不死鳥のころtopへ戻る
2013年現在、編集者が知る限りの広大天文學会に関する最古の記録は、1954(昭和29年)年2月11日に行われた
「再開」例会第1回です。当時、新制広島大学が設置されてから5年近くが経っておりました。
その当時は一般教養課程が皆実分校にあり、クラブの活動の中心も皆実分校にありました。私はこの時代を便宜的に
「皆実時代」と名付けてみました。
皆実時代の「部室」について、31佐藤さんがお書きになった『昭和十三年 早生まれ』ならびに『天界』1985年4月号などを
拝見しますと、当時の広大天文學会には部室というものはなく、皆実分校の村上先生の研究室を部室として使わせて
いただいていたということです。望遠鏡もその研究室にあり、深夜であろうが早朝であろうが、学生たちは部屋に自由に
出入りしていたと言います。
研究室のカギは守衛室から借りるようになっていて、そのカギを使って自由に先生の部屋に出入りしていましたが、
学生たちは勝手に合い鍵を作ってしまい、先生にご迷惑をかけたことがありました 当然、他の先生方から、研究室を
学生に開放する事への批判が出て来ます。しかし村上先生はそうした先生方を説得して下さり、その後も、会員は
研究室に自由に出入りさせてもらえたと言います。
村上先生の後任として広大にお見えになった内海先生は、後に次のようなことをお書きになっています。
当時の広大には天文学を専攻する学科はありませんでしたが、村上先生は天文学会のメンバーを天文学専攻の
学生のごとくに扱ってくださり、研究室も自由に使わせてくださいました。クラブの学生が研究室に自由に出入りする
ことに関して、教官の中には非難する声もあったようですが、村上先生はご自身の信念を貫かれ、会員はずっと
研究室を使わせていただくことができました。
(この部分は、内海先生が『天文月報』1986(昭和61)年9月号にお書きになったことから要約させて
いただきました。)
(天文月報ホームページTOPは http://www.asj.or.jp/geppou/index.html ここから「バックナンバー」に進んで下さい。)
何しろ天文サークルですから、夜中に校舎内外をうろうろしたりもします。研究室には貴重な物もあったでしょうし、
火事だって心配です。何をしでかすかわからないのが学生という存在です。「もし何かあったら」と先生方が不安に
なるのも当然のことです。先生方だけではなく、管理する立場の事務方からもこうした声はあったのではないかと
想像します。しかし、村上先生は、天文學会の会員を信頼してくださり、また、会員も先生から信頼していただくに
足る存在であったと言うことでしょう。先生と学生が太い信頼の絆で結ばれていなくては出来なかったことだと思います。
部屋はきっと、アカデミックな雰囲気に包まれていたことでしょう。この形態は、卒論を書く学生が指導教官の
部屋でお世話になるのに近いものがあったと想像します。
その一方で、1960(昭和35)年に、大学祭の展示を終えて天文教室にて慰労および反省会を行ったというような
記録も見られます。天文教室(=研究室)で慰労会を行うという自由で柔らかい「部室」としての雰囲気も
この部屋は兼ね備えていたわけです。
皆実分校は、1961(昭和36)年東千田キャンパスに移り、その跡地は大学の附属高校などになりました。
当時の木造校舎群は、今はほとんど残っていませんが、敷地の場所とグランド・プールの位置などは、
ほぼ当時のままのようです。興味がおありの方は、インターネット上の航空写真などを使って、ご覧に
なってみて下さい。
下の絵は、『広島大学の50年』所収の写真をもとにおこした皆実分校の俯瞰図です。
・@:20p反射赤道儀用のコンクリート基礎 1960(昭和35)年ごろ設置
・人工衛星観測場所については、こちらをご参照下さい。
33細井さんが、皆実分校時代の村上研究室について、教えて下さいました。
皆実の時代は(天文準備室などは無く)研究室があっただけです。校舎としては一番北寄りの建物です。 建物は二階建て木造でほぼ南北に長くなっています。ここは明治の埋め立て地ですから海抜0メートルのため? 全ての建物は階段を使って出入りすることになります。というか、古い学校はみんなこのような作りですよね。 建物をふたつに区切るように見えている線は耐震壁です。その横に見えている格子付きの窓の部分は不明。 天文には関係ない倉庫だったか、単なる踊り場かも。その格子窓の先に出入り口、更に南側は教室でした。出入り口 には小さな屋根が付いています。この出入り口には階段は無く、この建物の西側を南北につなぐ廊下との間の屋内に 階段がありました。同じ構造の出口が北よりにもあります。写真に写っていない、建物の西側では、外に石段がしつら えてあり、耐震壁のあたりから廊下に入るようになっておりまして、そこに至る踏み跡が白く写っております。肝心の 研究室は耐震壁のすぐ北側の窓で、もう一つ北側は地理学の設楽先生の研究室でした。 もう一度南側から記述しますと、 南端の教室(ここが例会やアストロコーラスの会場となりました)、東出入り口1、 倉庫?、耐震壁、村上研究室、設楽研究室、不明室、東出入り口2、トイレの順で並んでいました。東出入り口2を 出た所がプールの角になり、ここに人工衛星観測所?が作られる事になります。 建物の向きと、少し高い床構造が幸いして、研究室のグランド側は常に日光が入りましたので、この窓際の北よりに 屈折赤道儀を据えて昼休みに黒点観測をしたわけです。 (33細井さんのメールより) 編集者註:@33細井さんよりいただいたメールの文章を、このページの説明文としてわかりやすいように、 若干加筆・削除等の編集を加えさせていただいてあります。 A上の俯瞰図は詳細には描けておりません。従って細井さんの記述にあるとおりには見えません。 あしからず。(『広島大学の50年』所収の写真などで確認して下さい) |
皆実分校の村上先生の研究室を使わせていただいた時代は、1961(昭和36)年3月、皆実分校が担っていた一般教養課程が
東千田キャンパスに移ることによって幕を降ろしました。そのときの様子を、『7年のあゆみ』は以下のように伝えています。
1961(昭和36)年 2月17日 移転と改築で足の踏み場もないほど混雑した思い出多い研究室で 最後の例会を開き、思い出話にふける 参加者10名 3月 3日 新しい部室に入る (『7年のあゆみ』より) |
村上先生の研究室が、会員の心の拠り所(すなわち部室的な存在)であったことが伝わって来るではありませんか。
(各時代の部室の様子は、以下のリンクをクリックしてご覧下さい。)
部室の話top 皆実分校 東千田@ 東千田A 東千田B
西条 不死鳥のころtopへ戻る