謎の20p反射赤道儀
写真提供:33細井さん
この写真、場所は皆実分校の村上研究室があった校舎の脇です。
場所は「部室の話」で確認して下さい。
写っているのは、当時の会員の皆さんと、そしてかなり大型の反射赤道儀の望遠鏡。
撮影されたのは1960(昭和35)年も晩秋〜初冬頃、遅くても翌年の1〜3月までの間だと思われます。
一般教養課程(皆実分校)の東千田キャンパスへの移転を目前に控えたこの時期に、なぜか皆実分校に
望遠鏡を据え付けるための2m四方のセメントの基礎が作られました。20cm反射望遠鏡取り付けのための
基礎だというのです。
かくして写真のような光景が現出したわけです。(当時、大学には20p反射はありましたが、それは関西光学製の
経緯台で、写真の物とは全く別物でした。)
写真の望遠鏡、後に東千田キャンパス教養部屋上のドームに納められる25p反赤(西村製作所製)に形は非常に
似ていますが、どうも、ちょっと違います。
当時の反射望遠鏡は焦点距離(≒鏡筒の長さ)は主鏡の直径の8倍、つまり、口径比8(f8)ぐらいが標準でした。
写真の鏡筒の長さは、写っている会員の背丈とほぼ同じ、おそらく160p前後ですから、口径比が8だとすれば、
主鏡は20pぐらいではないかと思われます。主鏡が25pですと鏡筒は2メートルくらいとなり、もっとずっと大きな
感じになります。
写真の望遠鏡は、形からして西村製作所製の20p反赤だと思われます。たしかに、20p用の基礎を作って、
そこに口径20pの望遠鏡が据え付けられたわけですが、実はこれが謎の望遠鏡なのです。
謎:その@
この場所は東千田キャンパスへの移転を間近に控えた皆実分校です。まもなく入れ違いに付属中高が移って来ます。
では、これは、付属学校のための望遠鏡だったのでしょうか?いや、当時、御本家の大学側にも、これだけすばらしい
望遠鏡はありませんでした。御本家にもないようなこんなすごい望遠鏡を、果たして置き土産にして行くでしょうか?
(十数年後の1970年代中頃の西村製作所のカタログによると、価格は20p反赤が45万円、25p反赤は100万円。
1960年代初頭とはかなり物価が違いますが、参考までに)
謎:そのA
場所は校舎のすぐ脇です。ここに望遠鏡を据え付けても、校舎に遮られて空の半分近くは見ることが出来ません。
どうしてこんな場所に基礎を作ったのでしょうか。
謎:そのB
この望遠鏡の架台は分厚い鉄の鋳物です。西村製作所のカタログによると重さは、全体で150sだそうです。
後の時代には、ハイアマチュア向けの20pクラスは、車に積んでの移動を考えて、簡単にいくつかのパーツに分解できる
構造になりましたが、このタイプの20p赤道儀はそんな配慮はされていません。完全な据え付け型です。分解・組み立て・
移動を頻繁に行うことは想定されていないのです。(西村製にも、移動に配慮した軽量タイプもありはしました。この後まもなく
広大にやって来たシュミットカメラの架台は軽量タイプでした。)
もし、写真の望遠鏡を移動させるとなると、相当な人手・労力・時間が必要になります。クレーンも必要になるかもlしれません。
写真では、すでに望遠鏡は据え付けられているのに、これを格納・保護するドームもスライディングルーフもなく、完全にむき出し
のままです。使うたびに校舎から出し入れするなんて事は不可能です。写望遠鏡の架台の下の方には追尾用のモーターも
ついています。電気も使います。まさか雨ざらしにはできません。どうやって望遠鏡を保護するのでしょうか。
このように、この20p反赤は謎多き望遠鏡なのです。
当時、現役会員だった33細井さんから、次のようなメールをいただきました。
この基礎は未だ残っているかもしれません。移転を控えたこの時期になぜ工事をしなければ ならなかったのか?20cmではなく25cmの記載間違いか? 当時あった20cm(編集者註: 関西光学製20p反射経緯台)は全く使用されておりませんでした。 33細井さんより(2011年12月) |
後になって、この件に関して、33細井さんから 再度のメールと、このページ先頭の貴重な写真を頂戴しました。
据え付けられたのは一瞬の事で、写真撮影が済んだら取り外されたのではないでしょうか?。 星を見た、つまりその夜使われた記憶がありません。当時はビニールなどという便利なものは 一般には流通していませんから、外して屋内に片付けるしかありません。ひとりで出し入れ出来る 代物ではありませんから使われる事は無かったということです。 思うに、当時も今もお役人の考えることとして新しいものを嫌いますので、当時設計段階であった 教養部の屋上にドームを作るためには、皆実にも望遠鏡が据え付けられていた、という実績が 必要だったのではないでしょうか? つまり、25cmを入れるためのダミーではなかったか?ということです。その後どこへ行ったものやら 見た事はありません。借り物だったかも。 33細井さんより (2013年7月) |
かくて、この望遠鏡は正体不明で行方不明で、不明だらけ。皆実分校には、セメントで固められた基礎だけが残されました。
はたして、後の25p導入の呼び水となったのでしょうか?
25pが広大にやって来た時の経緯ついては、望遠鏡の話 や、
その 関連リンク(広大に25p反射赤道儀(西村製・木辺鏡)がやって来たんだけれど・) をご覧ください。
追記
上記の文章を書いて、ホームページにアップした後で、ふと気がついて、藤井旭さんの『日本の天文台』(誠文堂新光社
1971年)を
紐解いてみました。
全国各地にある西村製の20p反赤の写真が、何枚も出ています。そして、この望遠鏡には、脚(ピラー)と、鏡筒バンドの形状で、
いくつかのタイプがあることが分かりました。
脚部 タイプ@・・・アサガオの花を逆さにしたようなタイプ。底部の形が丸く、ピラーも滑らかな円錐・円筒形 脚部 タイプA・・・角形のタイプ。底部は四角形。ピラーも四角錐というか、上がやや細くなる長方形。 脚部 タイプB・・・上記タイプAと基本形は同じだが、ピラーの側部に長丸型の穴が開けてあるタイプ |
鏡筒バンド タイプ@・・・蝶番で、半円形の鉄板2枚を合わせるタイプのバンド(鏡筒を回転するには、バンドをゆるめる?) 鏡筒バンド タイプA・・・細い鉄製の輪2本を前後に並べ、その間を細い鉄製の棒でつないだもの。(そのままで鏡筒回転が可能) |
上の写真は、脚部はタイプB、鏡筒バンドはタイプAです。
で、藤井旭さんの『日本の天文台』(誠文堂新光社 1971年)です。102ページに我が大学の25p反赤の紹介。
その次のページに広島県理科教育センター(ここにかつて我が25p反赤は仮住まいしていました)と、比治山女子高校の望遠鏡の紹介があります。
比治山女子高校の望遠鏡は、
○ 西村製20p反赤(木辺鏡)
○ 脚部はタイプB
○ 鏡筒バンドはタイプA?(人が前に立っているのではっきり見えないですが、タイプAに見えます)
つまり、上記写真の望遠鏡と 同じ口径で、同じ形なのです。
しかも、出来たのは1961(昭和36)年だそうです。
1961年に出来たのがドームなのか、望遠鏡なのか、あるいは両方なのか、藤井旭さんは明記されていませんが、
皆さん、1961年ですよ!
上記の写真の撮られた時期(たぶん1960年、もしかしたら61年)と、あまりに近いではありませんか!
そして、皆実分校と、比治山女子高校との距離だって、あまりに近いではありませんか!
納入先へ届ける前に、近くの適当な場所で、ちょっと仮組立をしてみて、納品前の最後の調整を・・・する・・・かな?
どこか、仮組立に良い場所を提供してくれる所はない・・・かな?
「魚心あれば水心」って、言わない・・・かな?
(最後の3行はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません・・・かな?)
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