望遠鏡の話


東千田キャンパス教養部(後に総合科学部)屋上ドームにあった25p反射赤道儀(西村製作所・木辺鏡)です。
    
                         1978年ごろの撮影だと思います        1977年ごろ 北側のマンションより撮影


           
                      1982年3月下旬    観測後のドームから、明け染める黄金山方面を見る

         
         総合科学部 自然科学棟 屋上から、夜の国泰寺交差点を眺める(右端の建物は理学部2号館)
         この写真は55中村さんよりご提供いただきました。複写のため、光源の反射が出てしまって残念ですが、
        今はもう見ることが出来ない懐かしい光景です。


広大 天文學会・天文学研究会 望遠鏡事情 概論

 皆実分校や東千田キャンパスに活動の中心のあったころは、教養部(後に総合科学部)の望遠鏡をクラブで使わせていただいておりました。

私などは、ほとんど自分たち専用の望遠鏡であるかのような気分で使っておりましたが、これらは大学の備品、すなわち国有財産であったわけであります。

 まるで、自分たちが調達したクラブの持ち物であるかのような感覚で使わせていただけたと言うことは、天文学の先生方がクラブに対して、暖かいご配慮をして下さっていたということに他なりません。

 1965年(たぶん)には教養部に自然科学等が完成、その屋上に待望のドームが設置され、西村製25p反赤(木辺鏡)がその中に収まりました。

 西条への移転が始まると、活動拠点が遠く離れた2箇所になると言うことで、工学部の移転少し前からクラブとして移転積み立てを始めました。

西条キャンパスで使う望遠鏡を購入するのが主な目的でした。そして第1弾として、1982年 7月にタカハシ製9p架台をベースとした12pシステム望遠鏡を部費で購入しました。

 西条移転後の総合科学部には、ドームに納めるような大型望遠鏡は設置されませんでした。学校教育学部にドームができ、50p反射が納められましたが、残念ながらこの望遠鏡はクラブとしては自由に使用できなかったと聞いています。そのため、クラブ独自で使える望遠鏡を自腹で確保することが喫緊の問題となったと思われます。現在の部員達が使っている望遠鏡は、天文学研究会のホームページで見ることができます。

 その後、2006年になって、口径150pを誇るKANATA望遠鏡が、「東広島天文台」として広大に設置されました。日本国内で3番目の大口径望遠鏡だそうです。

 さすがにこのクラスともなると研究専用で、クラブで自由に使うなど考えも及ばないと思いますが、東広島天文台には理学部の院生が研究のため常駐しているそうですから、中には天文学研究会出身の院生もいるのではないかと思います。この望遠鏡を使って毎年、広大生による卒論や修論、博士論文が書かれるようになりました。

 東広島天文台のホームページには、広大の望遠鏡として、「かなた望遠鏡」「第2天文台望遠鏡 (教育学研究科50cm望遠鏡)」「25p」と記されています。この「25p」がかつて東千田キャンパスにあった物なのかどうか、また、今現在どこに設置されているのか、今のところ私には不明であります。
「望遠鏡事情 概論」などと分かったようなタイトルをつけましたが、自分の在籍した時期以外のことは、想像の域を出ません。皆様どうぞ、教えて下さいませ


1950年代

    不明    10p(反射経緯台?)
1954年3月2日  20p反射経緯台(関西光学工業製)
1955年1月14日 3インチ屈折赤道儀

 『7年のあゆみ』によれば、1954年3月2日にkanko(関西光学工業)20センチ反射が到着とあります。
 また、「それまでの10センチと比べて素晴らしい」ともありますから、クラブの記録が残る1954年2月の再開第1回例会が行われたころ、10pと20pがあったと考えられます。
また、1955年1月14日には、「3インチ屈折赤道儀が到着。黒点観測に力を入れる」とあります。3インチは約8センチ。メーカーは不明ですが、五藤光学あたりかと想像されます。

関西光学工業製20pはおそらく反射経緯台。この頃の日本天文学会の会誌『天文月報』にもしばしば広告が載っています。1970年代後半にも、この関西光学望遠鏡は25p反赤を納めたドームの中に置かれていました。

10pも、おそらくは反射経緯台。31佐藤さんがお書きになった人工衛星観測の様子の中に、10p反射経緯台で光の点を追跡して、飛行機か人工衛星かを判断したとあるのが、この望遠鏡かと思われます。


広島復興大博覧会に出品された五藤光学の15p屈折赤道儀を、広大に半永久的に貸与してもらえるという夢のような話があったそうですが、これを納める場所が無かったため、残念ながら実現しませんでした。


1960年代

1960(昭和35)年の末ごろ、東千田キャンパスへの移転を控えた皆実分校 村上研究室の外に20p反射赤道儀用のコンクリート基礎がうたれました。
(移転を控えて何のために?)

1961(昭和36)年、西村製のシュミットカメラがやって来ました。西村製としては軽量型の赤道儀に搭載するようになっていて、移動観測も意識した仕様でした。同年6月12日に初運転。
最初は理学部の屋上に置かれていたようです。その年12月のふたご座流星群の観測では、このシュミットカメラ等を使っての2点観測で流星の撮影に成功し、輻射点を求めたりしています。

シュミットカメラが広大に来るのとほぼ同時期に、楽々園プラネタリウム附属の25p反赤ドームが完成しています。

1962(昭和37)年12月17日 西村製25p反赤(木辺鏡)が到着し、翌12月18日 図書館屋上で組み立てが行われました

当時広大にはドームが無く、この25p反赤は県立理科教育センターに預けられることになりました。

教養部に自然科学棟ができ、その屋上にドームが設置され、25pが広大に戻ってきたのは1965(昭和40)年のことであったと考えられます。

 1963(昭和38年)年夏、北海道知床半島で皆既日食があり、天文學会有志がこれを観測に遠征した時の記録によると、10p反射を持って行ったとあります。
 「15pは大学の備品なので、もしもの事があっては申し訳ない」と言うことで持って行かなかったともあります。

当時の望遠鏡事情の一端をかいま見ることができます。

もしかして、この10p反射は、クラブ開闢以来の10pだったのでありましょうか?


1970年代

ドームに格納された25p反射赤道儀を主砲として、その他にもたくさんの、大学備品の望遠鏡や機器を使わせていただきました。

1970年代後半に使っていた物を思い出してみます。

西村25p反射赤道儀 木辺鏡。モータードライブ。赤経・赤緯微動もモーターでした。頑丈な赤道儀で、人が乗ってもビクともしないほどでした。8p屈折を同架。星像は素晴らしかったが、機械部分はドーム共々老朽化が進んでいました。観測前に微動コントローラー内の断線をハンダ付けしなければならないことがしょっちゅう。ショートすることもしばしば。鏡筒に付いていた小さなウエイトはネジがさびて動かず、バランスの微調整ができませんでした。
 ドームもモーターで動くシステムになっているのですが、動力を伝達する車輪がかなり摩耗していて、人力で押さないと動かない方向がたくさんありました。「ドスン、ウイ〜ン、ドスン」というモーターの音が懐かしいです。(「ドスン」はスイッチを入・切する時の音)
東京天文台岡山天体物理観測所では毎年6月に反射鏡のミラーメッキがおこなわれていましたが、それ合わせてこの25cm反射も、鏡だけを取り外して岡山まで持って行き、一緒にアルミメッキをしてもらっていました。(2年に一回程度の割合でした)
ニコン8p屈折赤道儀 当時としては貴重な、モータードライブ付き。ピラー脚。極軸部は傾斜35度に固定され、脚部のネジで極軸の角度を調整するニコン独特なユニークな形。極めて堅牢。屋上に出して太陽黒点のスケッチや星見会に活躍。
タカハシ8p屈折赤道儀 写真撮影を意識した堅牢な架台。合宿の際によく、キャンプ場に持って行きました。
西村12.5p反射経緯台 西村製では最も小さい望遠鏡。軽量で移動させるのが比較的楽なので気軽に使え、星見会などでよく使いました。
ミザール15p反射赤道儀 70年代後半の製品。副鏡前に補正レンズを置いて主鏡焦点距離を補正し、鏡筒を従来品よりかなり短くした画期的な製品。
三鷹製作所製赤道儀 70年代後半の製品。高級機のイメージ。附属の三脚が短く、また、プレート方式のような鏡筒取り付けの方法が普及していなかったため、あまり望遠鏡を載せる事はなかった。4連カメラなどを載せることが多かったように思います。
5p屈折 人工衛星観測用 5p7倍ほどなので、単眼鏡として結構重宝していました。
アストロスキャン(と言ったかな) ユニークなデザインの、口径10pくらいの、眼視用単焦点反射。コンパクトで、紐で肩から提げて見ることもできました。
村上先生の叙勲記念にお贈りしたものと同じ物でした。
光電管 天体の光度変化を測定・記録できる装置。変光星観測に威力を発揮するはずも、70年代前半に落下大破。70年代後半になってようやく復活。月食の高度変化を観測した会員もいた。上に掲載した25p反赤写真の奥の方に、装置の一部が写っています。
双眼鏡 タカハシかニコンの5p7倍があったように思いますが、大学備品か、クラブで買った物か、個人の所有品だったか、記憶が怪しいなあ

このほかにも、先生から、6pほどの単眼鏡(最近よくバードウオッチングバードウオッチングに使われるようなやつ)をお借りして、キャンプに持って行きました。

ドームの1階部分は、工作室兼物置になっていたのですが、ここには西村製15p反射経緯台が3台くらい、関西光学の20p反射経緯台が1台、置かれたままになっていました。ほとんど使ったことはありませんでした。鏡筒のフタをあけようとしても、さび付いていて開かない物も有りました。今にして思えば、木辺鏡なども有ったのではあるまいか・・・。もったいなかったなあ・・・。

 さらに、同じ場所に、上述した1961(昭和36)年の、口径20p位のシュミットカメラとその架台(モータードライブ付き軽量型赤道儀)が転がっていました。西村製で、同社のカタログの「シュミットカメラの主な納入先」という記事にも広大と書かれていた品でしたが、取り扱い説明書が無く、焦点の合わせ方も分からず(写真を撮りながら、調整していくらしかった)、使おうとチャレンジした人もいましたが復活させるに至りませんでした。古い記録を見たら、以前はこれを借りて帰省先に持ち帰り、写真撮影をした人もいらっしゃったようでした。何とか復活させたかったのですが、私には手も足も出ないという感じでした。これまたもったいなかったなあ・・・。

       

        西村製作所製 25pニュートン式反射赤道儀(木辺鏡) 1978(昭和53)年ごろ 撮影51小林


1980年代

1982年春に第一陣として工学部が西条へ移り、統合移転がスタートしました。これに伴い、会の活動をどうするか、西条での望遠鏡をどうするかが、大きな問題となってきます。
クラブとしては移転の何年か前から「移転積み立て」をして、この時に備えてきました。

1982(昭和57)年7月 移転積立金を使ってタカハシ製9p架台をベースとした12pシステム望遠鏡を購入。西条へ移転した工学部員の使用を主目的としました。以後、次第に大学の備品ではない、クラブ所有の望遠鏡が増えて行くことになります。

その少し前、

1982(昭和57)年4月、主砲25pの架台が、20年間に渡って使用されてきた西村製オリジナルから三鷹光器製に換装され、ずいぶんスマートになりました。
また鏡筒は、従来からの物を青く塗装し直して継続使用となりました。

        

   三鷹製架台に搭載された25p 1980年代後半(昭和60年代)の写真 (写真提供 57松田さん)


   

        三鷹製架台と青く再塗装された鏡筒 1990(平成2)年ごろ? 撮影51小林

1988(昭和63)年)夏、長野県白馬村にある北アルプス白馬連峰の天狗山荘と連携し、同山荘に会員数人ずつが交代で滞在し、登山客に望遠鏡で星を見せる企画が行われました。
この山荘で前年まで、夏にアルバイトをしていた会員が山荘側に提案して実現したものでした。望遠鏡やテントは、ヘリで荷揚げされたそうですが、この時の望遠鏡は、ミザール15pだったような記憶がおぼろげながら有ります。3000メートル近い日本アルプスの山小屋で、15pを使ってみる星は素晴らしかったと思いますが、編集者が訪れた日は、霧で観望会ができませんでした。


1980年代の情報、募集中です。


1990年代

1993(平成5)年、総合科学部が西条へ移転。総合科学部会に大きく依存してきた会の事情も大きく変わることになったようです。東千田キャンパス時代の25p反赤ドームは総合科学部屋上に設置されていたのですが、西条では、総合科学部にドームが設置されないことになったのです。クラブのBOXも、天文学教官室の上・ドームの下のスペースを不法占拠して、以後既成事実として使ってきましたから、これも失うこととなり、クラブを取り巻く環境は大きく様変わりします。

望遠鏡はクラブ自前で用意する時代がやってきました。天文研所有望遠鏡の雄姿を、ご本家HUAAのホームページの「活動」のコーナーで見ることができます。かなり充実していますね。でも、部員の経済的負担も大変だったのではないでしょうか。

1995(平成7)年、学校教育学部が西条に移転、屋上に50センチ反赤ドームが設置されましたが、これは研究用・実習用。クラブとして使うことはできなかったと言います。

       証言で綴る「25p反赤、西条移転後の変転」
東千田キャンパスの教養部(後に総合科学部)屋上ドームにあって、長いことクラブのシンボル的な存在であった25p反赤。しかし、総合科学部西条移転に際して、こんp望遠鏡は西条キャンパスには移設されないこととなりました。これを使わせてもらって、愛着を持つOBも多かったのですが、西条移転後、その行方が分かりません。この望遠鏡はどうなったのか、証言を集めてようと思います。


[55野山さんからいただいたメール]


 聞いた話ですが、25cm反射(赤道儀は総合科学部時代に三鷹製に変更)は、大学移転時に学校教育学部の林先生(編集者註)が、同学部の地学研究室に引き取ったと聞いています。その後、流星で活躍した松本君(私よりたぶん10代ぐらい後の天文研会長)から、木辺鏡ははずして、その当時は先輩の下宿に移っていた聞いています。彼は25cmを使ってみたかった、と言っていました。

(編集者註):学校教育学部 地学研究室の林先生は、内海先生の授業を手伝っていらっしゃったそうです。メールの内容、一部修正させていただきました。


[07松本さんの証言]

 私は千田時代を知らない世代ですが、U研最後の学生の一人です。(中略)研究室にいた頃)、実は木辺鏡を見せてもらったことが
あります。鏡筒と架台はもう無いとのお話でした。(中略)当時聞いたのは、鏡以外は廃棄されたとのことでした。

編集者註:平成10年のことだそうです。その時は、セルも何もなく、主鏡だけの状態だったそうです。野山さんのメールにあった「先輩の下宿に云々」ということは、
        無かったそうです。どこかで話が変わってしまっていたのでしょう。

      本ホームページ付属の掲示板「あしあと」(私家版)に、2014年9月11日に投稿いただいたものを転載させていただきました。


[2013(平成15)年のOB会にて]
 2013年夏、フェイスブックでつながったOB・OGが中心となって、東京でOB会が開かれました。昭和40年代後半〜50年代を中心に、平成10年代入会の若いOBまで、
大勢が集まりましたが、その席で、平成10年代入会の、すなわち西条キャンパスしか知らない世代の皆さんから聞いた話です。


 西条キャンパスのBOXの机の引き出しの中に、大きな鏡が入っていました。もしかしたら、それが東千田キャンパスにあったと
いう25pの主鏡だったのではないでしょうか?


[2014(平成16)年、内海先生からうかがったお話@]
2014年8月、編集者は同窓会で、内海先生にお目にかかる機会を得ました。25pのその後のことは、先生に伺うのが一番、ということでお話を聞かせていただきました。

25pの鏡筒は、あります。現在姫路にあり、私の知っている人物の所有となっています。彼は自分の観測所を持っており、そこに
この鏡筒があります。


[2014(平成16)年、内海先生からうかがったお話A]
先生にお会いしてから一月ほどして、先生よりお電話をいただきました。電話の内容を要約してここに再現してみます。

25センチは総科移転の折、国有財産の処分と言うことで競売にかけられた。どこに売られたか、詳しいことは分からない。
しかし現在は、25センチは姫路の、先生の知っている方の所有となっていて、その方の観測所に設置されている。
広大の天文OBが、25pの行方に関心を持っていると伝えて下さったところ、「そういうことなら」と、鏡筒を先生のお宅まで持ってきて
下さり、それが今ここにある。
広大にあった時、鏡筒は最初は白かったが、途中で青く塗り直され、今はまた白い塗装になっている。
架台はもう、当時のものではない。



あの25p木辺鏡は鏡筒も含めて生きていたのです。この上なく嬉しいことです。この続きは、当面、こちらでご確認下さい。
(パスワードが必要です。閲覧ご希望の方はパスワードを51-Kまでメールにてお問い合わせ下さい。

1990年代の情報、募集中です。


2000年代

クラブの望遠鏡ではありませんが、広大の天体望遠鏡事情が大きく変わる出来事が起こりました。2006(平成18)年なんと、1.5メートル反射経緯台を持つ東広島天文台が、広大の施設として設置されたのです。

日本が世界に誇るハワイ、マウナケア山頂の「すばる望遠鏡」。それに機材を取り付けるとき、いきなりぶっつけ本番では何かと不安もあります。そこで事前に、別の望遠鏡に試験的に機材をつけてシミュレーションを行なうことになりました。そのシミュレーション用に作られたのが、「赤外シミュレーター」(三菱電機製だと聞いています)なる望遠鏡でした。

「赤外シミュレーター」は1994(平成6)年に完成し、国立天文台三鷹キャンパス開発実験棟屋上のドーム内に設置されていました。シミュレーターといっても、あのすばる望遠鏡のシミュレーターですから、口径は1・5メートルもあります。(「赤外シミュレーター」でインターネットを検索すると、当時の様子を記した記事がいろいろとヒットします)

やがて、事前テストは不要になったようで、この「赤外シミュレーター」は初期の使命を終え、今度は観測用として、どこか別の場所に設置されることになったのです。そこで手を挙げたのが広島大学、2000年のことだったと言います。

理学部長・学長を歴任された牟田泰三さんが、専門は理論物理学(素粒子論)ですが、アマチュア天文家で、強力に広大への誘致を進めたのが力になったようです。

当初の計画では、広大がこの望遠鏡を管轄するものの、設置場所は国立天文台岡山観測所あるいはその近辺という予定でした。しかし、2003(平成15)年、広大の近隣自治体の首長から地元への設置要望があり、数カ所の候補地でシーイング測定などが行われましたが、思うような結果は出ませんでした。やはり設置場所は岡山か?

その年の瀬も押し迫った12月、その後、さらに2箇所の候補地が上がったため、追加調査を行うこととなったのですが、そのうちの一箇所が、岡山を上回るようなすばらしいシーイングであることが分かりました。気象条件も問題なく、大学からも東広島駅からも近い、と言うことで、この場所が望遠鏡設置の候補地として急浮上してきました。それは、東広島市西条町三永の福成寺地区でした。継続した調査が行われ、ついに2004(平成16)年、ここに「赤外シミュレーター」望遠鏡を移設することが決定しました。

2005(平成17)年、「赤外シミュレーター」は、西村製作所で改造が行われました。動きが速くなり、このクラスの口径では世界一速いだろうとのことです。

かくて2006(平成18)年5月、ドーム工事や望遠鏡の据え付けが完了し、東広島天文台が開所式を迎えます。望遠鏡の愛称は一般公募され、宇宙の彼方を観測する望遠鏡、あるいは宇宙の彼方に思いをはせる望遠鏡という意味で「かなた望遠鏡」と名付けられました。

観測・研究用ですが、一般公開も行われますし、周囲は公園になっていて、ドームまでは行けるそうです。ドームの壁面外側に覗き窓があり、カーテンを開いてドームの中を勝手に覗けます。

この望遠鏡を使って毎年、広大生による卒論や修論、博士論文が書かれるようになりました。東広島天文台には理学部の院生が研究のため常駐しているそうですから、中には天文学研究会出身の院生もいるのではないかと思います。様子を教えてくれるとうれしいです。

2000年
(平成12年)
広大 赤外シミュレーターを岡山天体物理観測所へ移設することを提案
GLASTガンマ線望遠鏡’国際共同で開発中)との連携観測を目的とする
2002年
(平成14年)
 9月 赤外シミュレーター移設計画を国立天文台長に提出
    広大 赤外シミュレーター移設活用計画を発表
10月 赤外シミュレーターの広大への移管と、岡山天体物理観測所への設置が決まる
2003年
(平成15年)
 2月  赤外シミュレーターの広大移管を国立天文台より正式に通知
 7月  広島の近隣自治体首長が赤外シミュレーターの地元設置を要望
 8月  広大宇宙科学センター準備室の設置を決める
8〜11月 東広島市近郊で設置候補地数カ所で、シーイング測定 岡山に匹敵する場所なし
12月  さらに2箇所の候補地があがり、追加調査すると東広島市西条町三永の福成寺地区がシーイングで岡山を上回り、調査を続行することに。
     気象条件、シーイング、大学や駅からの距離、等を総合的に勘案して、天文台設置候補地として急浮上。
2004年
(平成16年)
2・3月 天文台設置場所として 東広島市西条町三永の福成寺地区の可能性を夏まで検討継続することに。
 3月  赤外シミュレーター、広大へ移管
 4月  広大宇宙科学センター発足
 7月  国立天文台長、東広島市の候補地に赤外シミュレーター 設置を認める
10月  新天文台の設置場所を決定
2005年
(平成17年)
 5月  整地工事始まる
 8月  天文台建物の建設開始
 9月  赤外シミュレーターを三鷹キャンパスから撤去、西村製作所で半年かけて改造を行う
2006年
(平成18年)
 3月     東広島天文台建物完成
 4月     望遠鏡の据え付けを開始
 5月25日  望遠鏡の据え付けを完了。公募により、名称を「かなた望遠鏡」と命名
 5月26日  広島大学宇宙科学センター附属東広島天文台、開所式
2007年
(平成19年)
 4月  本格的観測を開始

 

特色 カセグレン焦点とナスミス焦点を持つ。
高速で駆動する 焦点切換30秒
ガンマ線バースト情報受信から100秒で自動的に観測開始が可能
主なる観測目的 ガンマ線観測衛星と連携した、突発・激変天体追跡専用望遠鏡
その他の目的 観測装置開発支援・試験観測
天文普及、一般公開用の双眼眼視機能
大学院生の研究用
学部学生実習用 

以上、「かなた望遠鏡」に関しては、

 ・31佐藤さんに教えていただいたこと
 ・「新天文台建設に至る経緯と東広島天文台概観」(大杉節・川端弘治・吉田道利(敬称略)かなた望遠鏡チーム著 日本天文学会『天文月報』 2011年10月号掲載)
 ・広大ホームページ

などを参考にまとめさせていただきました。難しくて理解できないことも多く、的外れなことを書いているかも知れませんが、ご寛恕いただき、ぜひご指摘下さい。

『天文月報』 2011年10月号と12月号に「東広島天文台とかなた望遠鏡」が特集されています。
(天文月報ホームページTOPは http://www.asj.or.jp/geppou/index.html ここから「バックナンバー」に進んで下さい)・・・2011年現在、2011年版はIDのない人は閲覧できません。

大学事情通から聞いた、かなた望遠鏡導入にまつわる話

こんな大きな望遠鏡、きっと他にも欲しいという大学や機関はあったはずなのに、よく広大が獲得できたものだと、私は感心していたのですが、次のような裏話を聞きました。

赤外シュミレーターは、初期の役割を終えた望遠鏡です。新たに作るのと違って、本体は格安に(あるいは無償で?)譲り受けられるとしても、改修・運搬・据え付け・ドーム建設など、本体以外にも莫大な予算を必要とします。新たなスタッフも必要です。

一方で、大学と言うところは、全体の予算枠は大体決まっていますし、先生方の数も決まっています。新たに大きなプロジェクトを行うとなると、別枠で予算を確保しない限り、既存の研究費を削ってその新プロジェクトに回すと言うことになりますから、「そんなの、冗談じゃない」と、学内から反対の声が上がるのが当然ということになります。

ですから、今回のように格安に望遠鏡が手に入るからと言って、おいそれと手を挙げる事が出来ないのが大学と言うところなんだそうです。

この事態を克服するためには、一つは予算獲得、もう一つは学内の意見を強力にまとめらる力が必要です。それが出来るのは、大学では学長をおいてほかにありません。学長がアマチュア天文家で、赤外シミュレーター獲得に意欲的であったことが、この望遠鏡を広大に持って来れた事の大きな原動力であったことは間違いないでしょう。もし、この時の学長先生が他の方の、天文に興味がない方であったならば、この話はなかったかも知れません。そうなれば、赤外シミュレーターはどこか別の所へ行くことになったでしょう。

新規の大プロジェクトは、はたから見るより大変だという、とある事情通から聞いた、ちょっと生々しいお話でした。



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