東千田時代@ 1961(昭和36)年〜1965(昭和40)年ごろまで
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編集者の疑問@
長年天文學会の顧問をして下さった村上先生が勲章を授与され、天文學会のOBが祝賀会を計画していた
1978(昭和53)年のことです。当時アメリカ在住だったOBの35渡辺さんは、祝賀会に参加できない旨の手紙を
祝賀会の幹事の31佐藤さんとクラブ宛に送って下さいました。クラブ宛と言うこともあって、その手紙は
1978年12月の蒼穹に掲載されましたが、その中にこんなくだりがありました。
(昭和)51年だったか、広大で(日本)天文学会があったとき、訪れましたが、すでにあの道路横の 「天文準備室」は無く、しばしあたりにたたずんで来し方を振り返った次第 35渡辺さんからの手紙 『蒼穹』No.14 1978年12月発行より |
『あの道路横の「天文準備室」』とは、どのような性格の部屋で、どこにあったのでしょうか?
編集者の疑問A
1961(昭和36)年に刊行された『7年のあゆみ』は、一般教養課程の東千田キャンパスへの移転を期に、
それまでの「皆実町時代」を回顧・総括した冊子です。その年表は次のような記述で終わっています。
1961(昭和36)年 2月17日 移転と改築で足の踏み場もないほど混雑した思い出多い研究室で 最後の例会を開き、思い出話にふける。参加者10名(氏名省略) 3月 3日 新しい部室に入る 『7年のあゆみ』より |
新しい部室とは、どこにあったのでしょうか?
編集者の疑問B
皆実分校の時代は、村上先生が研究室を使わせて下さり、そこが部室代わりでも
あったと言いますが、東千田キャンパスに移ってからはどうだったのでしょうか?
下の図は1950年代前半の写真をもとに描いた東千田キャンパスです。一般教養課程が皆実分校から移ってきた
1961年頃には建物の様子は、この図とはだいぶ変わっていたと思いますが、このキャンパスで過ごされた皆さんには、
どのアングルから見たものか、すぐにおわかりになるでしょう。
ここに示した場所に、編集者の疑問@の『道路横の天文準備室』はありました。
そして、こここそが、編集者の疑問Aの『新しい部室』だったのです。
・大学のホームページ や、『翔べフェニックス』 『広島大学の50年』などの記念誌にも、同じ頃の写真が ありますから参考になさって下さい。 ・天文準備室の左に隣接している部分は、一般教養課程が皆実分校から移転して来た時にはすでに 解体されていて、なかったとのことです。 ・準備室の右側の、大きい窓の部分は柔道場として使われていたそうです。 ・天文準備室のある建物の奥に連なる木造校舎群は移転前の付属の中学・高校(小学校か?)でした。 かなりの部分は解体されて別の建物やプールなどになりましたが、一部は後々まで残されて、 生協や学食、文化系・芸術系のサークルBOXとして長く(おそらく1990年代初め頃まで)使い続けられる ことになります。 ・天文準備室のあったあたりは、学園紛争などの影響もあり、その後もかなり建物の変遷の多い場所となりました。 |
天文準備室の位置は、35渡辺さんの手紙にあったようにまさしく「道路沿い」で、後に作られるプールの南西の角あたりに
ありました。 この部屋に望遠鏡が置かれていましたから、夜、望遠鏡を出し入れするのに校舎に出入りする必要が無く、
管理上はやりやすくなったことと思います。
そしてここが、天文準備室(=望遠鏡置き場)としてだけではなく、天文學会の部室としても使われることになったのでした。
移転から4年経った1965(昭和40)年に、会誌『蒼穹』第1号が出ましたが、その中に「天文準備室にぎっしり35名も集まって
クリスマス会を行った」という記事も見られ、部室として有効に(?)活用されていた様子がうかがえます。
観測はほとんど、準備室のすぐ北の場所、後にプールとなる場所の真ん中あたりに望遠鏡を出して行いました。
シュミットカメラの電源コードも、そんなに長く延ばす事は出来なかったので、準備室からあまり離れた所で観測をすることは
なかったそうです。もう少し先の、後にテニスコートとなるあたりまで行くと、かえって鷹野橋方向からの車のライトが邪魔に
なったりもしたそうです。
加えて、道沿い(壁沿い)の樹木がかなり育って来たこともあって、人工衛星観測の再開は困難だったそうです。
編集者の疑問Bについて
皆実分校の頃は、村上先生が研究室を開放して下さり、会員は自由に先生の部屋に出入りさせていただいていたのです
が、東千田に移ってから当分の間、村上先生の専用研究室は無く、他の先生との協同研究室だったので学生は遠慮して
いたようです。
(いつまでそのようだったかは、現在(2013年)のところ未解明です。)
教養部では最初に理科系4教科の建物が、図書館と同時に出来ました。この2つに共通するのは半地下室があると
いうことです。しかしこれは、大雨の際に排水が出来ず、流しから雨水が逆流して室内にあふれるという欠陥のある
建物でした。それで、その後の教養部の建物は設計変更され、半地下が無くなりました。その新旧の建物を廊下で
つないだため、廊下は段差のある複雑な組み合わせとなりました。
かくして1965(昭和40)年ごろまでに、北門側に向かって教養部の自然科学棟は増築され、その屋上に25p反射を
入れるドームも作られました。同じころ、ドーム下の5階部分に天文学の教官室も設けられたと考えられます。おそらく
この時からあまり時期を経ずして、「道路沿いの天文準備室」(=部室)はその役目を終えたのではないかと推測します。
(現段階(2013年)では、はっきりしたことは編集者には分かっておりません。)
(この項は、33細井さんからいただいたメールを基に、編集させていただきました。)
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